ヘブライ人への手紙 11:1~16
これまで繰り返し「信仰」について語られてきました。神が求めておられる唯一のもの、それは信仰なのです。10章末のハバクク書の引用によるように、人が正しい者と見なされるのは、信仰によってなのです。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあるとおりです。
その「信仰」が何であるかを、著者は次のように短く表現します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。望んでいる事柄とは、未来に属する事柄です。まだ手にしていないし、まだ見ていないものです。しかし、人は信仰によって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。すなわち、約束してくださった方は真実であると信じ、約束してくださった方に信頼することによって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。
「望んでいる事柄」「見えない事実」については、既に語られてきました。私たちには、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられています。それはまだ未来に属する事柄です。その当時の教会にしても、今日の教会にしても、いまだ苦しみと戦いの中にあるのです。しかし、信仰によって、望んでいる事柄を確信するのです。そして、これは未来に属すると言いましても、その時になって初めて用意されるのではありません。神の安息は既に用意されているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているとおりです。神の御業は既に完成しているのです(4:3)。
神は安息しておられるのです。そして、その安息に私たちをもあずからせようとしておられるのです。それが時間の世界に生きる私たちにはまだ見えていないのです。その見ていないものを見て生きるのです。約束してくださった方は真実であると信頼して、見えない事実を確認して生きるのです。それが信仰です。
神が求めておられるのは信仰です。ですから、信仰なくして神に喜ばれることはできません。それはそうでしょう。神を不真実な方と見なしながら、神に喜ばれることはできないでしょう。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
その観点から著者は旧約聖書の人物を列挙していきます。最初に上げられているのはアベルです。創世記4章に、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかったという話が書かれています。その理由は聖書に記されていません。しかし、既に述べられてきたことからすれば、理由は一つです。それは信仰です。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」たのだとこの著者は言うのです。
エノクについても同じです。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と書かれています。エノクはどうして死を経験しないで天に移されたのか。聖書にはただ「神と共に歩み」とだけ書かれています。しかし、それが何を意味するのかと言うならば、それは「信仰によって」だ、と著者は語るのです。彼が神に喜ばれる者として神と共に歩んだのだとするならば、それは信仰によってなのだ、と。
次に挙げられているノアについては、信仰の事柄がより明らかになっています。ノアは洪水について告げられたのです。それは未来に属する事柄です。まだ見ていない事柄なのです。しかし、ノアはまだ見ていない事柄を見るようにして、箱船を造ったのです。結局、救いと滅びとを分けたのは、善悪ではなかったのです。信仰だったのです。ノアは公に箱船を造ったのであって、その姿はこの世に対するしるしだったのですから。他の人々も信じるなら救われたのです。しかし、ノアは信仰に基づく義を受け継ぐ者となり、世界は不信仰に基づいて罪に定められたのです。
ここまでアベル、エノク、ノアについて語られてきました。それはかなり粗い議論であることは確かです。しかし、それは大して重要なことではありません。彼らの話を助走として本当に語りたいのはアブラハムについてだからです。アブラハムとサラの姿こそ、信仰が何であるかを雄弁の物語っているのです。
アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くよう召し出されると、行き先も知らずに出発したのです。約束されたものはまだ見ていないのです。見ることは未来のことです。しかし、約束してくださった方が真実であると信じて出発しました。これが信仰です。
そして彼は約束の地に着きました。しかし、アブラハムの物語に見るように、彼はその土地を得ることはありませんでした。彼が得た土地と言えば、サラが死んだ時に墓とするために買ったマクペラの洞穴ぐらいです。彼は生涯、寄留者として生活することになりました。約束の地にありながら、他国に宿るようにして幕屋に住んだのです。
その息子のイサクも、孫のヤコブも同様です。しかし、アブラハムは神を不真実であると見なしたでしょうか。アブラハムの物語には、彼が神を不真実だと詰る場面は出てこないのです。そうではなくて、アブラハムはこの時でも、なおまだ見ていないものを信仰によって見ていたのだと言うのです。すなわち、アブラハムは神が設計者であり建設者である都を待望していたのだ、と。確かに、彼が買った土地がお墓だけだったということは、そのことを象徴していると言えるでしょう。
サラはどうでしょう。サラは不妊の女でした。年齢も盛りを過ぎていました。しかし、ヘブライ人への手紙は、「約束をなさった方は真実な方であると、信じていた」と語ります。創世記の物語には、実際には彼女は信じなくて「笑った」という話が出てきます。しかし、そのような自分の内にある不信仰にあらがって、彼女は信じたのだ、そして、信じたとおり、多くの子孫が生まれたのだ、と聖書は見ているのです。
しかし、大事なことは、サラにしてもアブラハムと同様、この地上のことだけを考え、死の手前までを考えるならば、「約束されたもの」は手に入れなかったと言えます。そうです、彼らは約束されたものは手に入れないで死んでいったのです。アブラハムとサラのみならず、イサクにしても、ヤコブにしてもそうなのです。
ではこれらの人々は、神の不真実を思って死んでいったのか。いいえ、そうではないのです。先にアブラハムについて言えたことは、アブラハムを含めこれらの人々すべてに言えるのです。次のように書かれているとおりです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(13節)。
死の手前までしか見ないなら、神様が不真実に見えることはいくらでもあります。この目に見える地上の人生だけを見、目に見えるこの世界だけを見ているならば、神様が不真実に見えることはいくらでもあるのです。目に見える世界の中においては、彼らは約束のものを得なかった。私たちでもそうです。
しかし、信仰によるならば、死の手前までで神を計ることはしないのです。その向こう側を見るのです。見えない事実を確認するのです。神の真実を信じて、最後まで死の向こうまでを見るのです。彼らは「信仰を抱いて死にました」と聖書が伝えているとおりです。信仰とはそういうものです。彼らは約束されたものをはるかに見て喜びの声を上げていたのだ、と聖書は伝えるのです。信仰とはそういうものです。
彼らは喜びの声を上げながら、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表して生きました。すなわち、あくまでも旅人として生きたのです。旅人には目的地があります。彼らが目指していたのは故郷なのです。この世の故郷ではありません。ヘブライ人への手紙は、これを天の故郷と表現します。これまでに語られてきた神の安息にあずかる希望がこのように表現されています。信仰者はそのように天の故郷に向かう旅路を行く者なのです。
そのように天の故郷を熱望して生きたアブラハム、イサク、ヤコブの神であることを、神は恥となさいませんでした。神自ら「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られたのです。同じように、私たちもまた信仰によって生きるなら、その名前の列に私たち自身の名前を加えることができるでしょう。神は私たちの神と呼ばれることを恥となさることはありません。