2023年7月5日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 5:1~10

 ヘブライ人への手紙 5:1‐10

 今日お読みしましたところで、まず心に留めたいのは7節の言葉です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。イエス様は、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら祈っておられた。ヘブライ人への手紙の著者がこの言葉を書いた時に念頭に置いていたのは、恐らくゲッセマネの祈りであろうと思います。

 キリストは祈っておられた。叫びながら、涙を流しながら祈っておられたのです。死から救ってください、と祈っておられたのです。そのような人間としてはごく自然な姿を、教会は大切に伝えてきたのです。イエス様は私たちとは全く別で、恐れることなく、目の前の十字架にひるむことなく、淡々と死の向こうの復活に向かって行ったかのように、教会はキリストを伝えてきたのではないのです。そのように信じてきたのではないのです。キリストは恐れていた。キリストは苦しんでおられた。死から救ってください、と、キリストは泣き叫びながら、父なる神にすがりついておられたのです。

 そして、そのような祈りについて、こう書かれています。「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。さて、キリストの祈りは本当に聞き入れられたのでしょうか。死から救う力ある御方は、聞き入れてくださいましたか。そう、確かに「聞き入れられた」と言うことはできます。キリストの復活を聞いて信じている私たちは、そう言うことができる。キリストは死に飲み込まれて滅びてしまったのではなかった、と。父は確かに死から救ってくださった、と言うことができるでしょう。

 しかし、今、あえて「キリストの復活を聞いて信じている私たちは」と言ったのには意味があります。信仰によらなければ、そうは見えないのです。信仰にはよらずに、この世の目によって、目に見えるところだけでキリストを見たら、どう見えるでしょう。この世が見たキリストは、十字架にかけられて、死んで葬られたところまでなのです。ですから、信仰によらなければ、先ほどの聖書の言葉はこうなります。――「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげたけれど、その畏れ敬う態度にもかかわらず、その祈りは聞き入れられませんでした。」

 そうでしょう。十字架にかけられて死んでしまったのですから。墓に葬られてしまったのですから。十字架の下で人々が何と言ってイエス様を罵ったかご存じですか。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」しかし、イエス様が十字架から降りることができたのは、死んでしまってからだったのです。信頼したって、叫び求めたって、やっぱりダメだったじゃないか、ということになるでしょう。

 さて、度々申し上げていますが、この手紙が書かれたのは、既に教会が大きな迫害を経験し、そしてまた新たな迫害が迫っていたという時代でありました。迫害の中においては、身近な指導者が、あるいは親しい友や家族が捕らえられていくわけです。「神様、助けてください。救ってください」と皆が必死で祈ったにもかかわらず、捕らえられてしまった、殺されてしまった、という人は少なくなかったに違いありません。それは祈りが足りなかったのでしょうか。神への信仰が足りなかったから、殺されてしまったのでしょうか。

 しかし、それは祈りが足りなかった、熱心さが足りなかったという単純な話ではないことをイエス様の姿は示しているのです。というのも、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈ったキリストも、しかも信頼と畏れ敬う態度においては完全であったはずのキリストもまた、それにもかかわらず死んでしまったからです。この世の目から見るならば、そうなのです。

 にもかかわらずヘブライ人への手紙は、はっきりとこう宣言しているのです。あの叫びは、あの涙の祈りは、神に「聞き入れられました」と。ヘブライ人への手紙の著者は、その事実を信仰によって見ているのです。主はもはや死の中にはいない。主は生きておられる。完全な命の輝きの中に生きておられる。そして、同じことが私たち自身についても見えてくるのです。祈りは聞かれなかったように見えるかもしれない。信頼は裏切られてしまったかのように見えるかもしれない。しかし、そうではない。復活が見えてくると、まだ目には見えていない永遠の命の世界、神が約束してくださっている神の安息が信仰によって見えてくると、祈りは確かに聞き入れられていることもまた見えてくるのです。

 とはいえ、信仰によって死を越えた確かな希望が見えてきたとしても、それでも苦しいものは苦しい、辛いものは辛いのです。永遠の命に至るなら、耐え忍ばなくてはならない苦しみが決して無駄な苦しみでないことは分かります。祈りが聞かれていないわけじゃないことは分かります。天の故郷に至る道を歩いているんだということも分かっています。しかし、それで苦しみそのものがなくなるわけではありません。

 それゆえに、5章冒頭に書かれている大祭司についての説明が大きな意味を持つのです。既にこれまでのところで度々イエス様が「偉大な大祭司」であることが語られていました。しかし、ここにはわざわざ「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」ということが書かれていました。天使は大祭司になれないのです。あくまでも大祭司は人間でなくてはならない。つまり大祭司自身、人間としての弱さを持っているということです。そしてこう書かれています。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」(2節)。

 イエス様は、そのような大祭司となってくださったのだ、とこの手紙は教えているのです。神の御子であるのに、弱さを身にまとう人間の一人として生きてくださったのです。そして自らは罪のない御方であるのに罪人と同じところに立ち、私たちと同じように死を免れぬ人間として生きてくださったのです。人間の一人として苦しみを味わってくださった。キリストは叫んだのです。泣いたのです。父にすがりついたのです。

 それだけでなく、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(8節)とさえ書かれています。私たちが信仰によってキリストの復活に目を向けることができるなら、確かに希望を失うことはないでしょう。神は確かに祈りを聞き入れてくださっている。そう語ることもできるでしょう。しかし、それでも苦しいことは苦しいし辛いものは辛いのですから、それでもなお神様に信頼して従順であり続けることは時としてとても困難であることは事実なのです。

 しかし、そのような私たちのために大祭司なるキリストがいてくださる、とヘブライ人への手紙は語るのです。その御方は「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれ」た御方です。だから分かってくださる。私たちの苦しみも、試練が誘惑となってしまうことも、私たちが無知で迷いやすい者であるということも分かってくださる。「完全な者となられた」とは、救い主としての完全です。

 そして、この大祭司が分かってくださるならば、生きていくことができる。耐え忍ぶことができる。そのような大祭司が執り成してくださるから、私たちは迷っても今一度立ち返り、神に信頼して生き始めることができるのです。多くの苦しみによって従順を学ばれた御方と共に、父なる神に信頼し、従っていくことができるのです。

 そのことを思いつつ、改めて先週の箇所をお読みしましょう。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(4:14‐16)。


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