2023年10月18日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 12:1~13

 ヘブライ人への手紙 12:1‐13

 二回にわたってヘブライ人への手紙11章を読んでまいりました。信仰者列伝と呼ばれるその箇所には、「信仰によって」という言葉が繰り返され、信仰に生きた人たちの姿が次々と描き出されていました。

 そこには生ける神の奇跡を経験し、助け出され、勝利を得た人たちや、死んだ身内を生き返らせてもらった人たちのことが書かれていました。その一方で、迫害の中で拷問にかけられ死んで行った人たちのこともまた書かれていたのです。しかし、彼らは死んだ身内を生き返らせてもらうこと以上のこと、「更にまさったよみがえりに達するために」あえて釈放を拒み、拷問にかけられたのだとこの手紙は語ります。それは「信仰によって」です。彼らは皆、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を見ているかのように確認しながら生きたのです。

 先週お話ししましたように、いにしえの信仰者たちを思います時に、私たちは何を見ているのだろう、と思わずにはいられません。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことだと言うのでしょう。

 しかし、考えてみれば、ここで挙げられている人たちは旧約の時代の人たちなのであって、永遠の大祭司であるキリストも、またキリスト自らが罪の贖いの犠牲となってくださったことも知らない人たちなのです。新約の時代の私たちにとっては当然のごとくに耳にしている福音のすべても知らなかった人たちなのです。これらの人たちは、まさに信仰に生きた人たちでした。しかし、私たちは更にまさったものをいただいているのです。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」(40節)と書かれているとおりです。

 もちろん、神が私たちのために計画し、与えてくださったキリストの到来と、その後の新約の時代のすべては、いにしえの信仰者たちの歴史によって準備されたものでした。私たちが「更にまさったもの」をいただいているのは、一重に彼らのお陰でもあるのです。彼らの信仰の歩みなくして、今の私たちはないのです。

 しかし、ここで非常に興味深いことに、その逆もまた真なりと語られているのです。すなわち、彼らなくして私たちはないように、私たちなくして彼らが全うされることもない、と語られているのです。「わたしたちを除いては(わたしたちなくしては)、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:40)と。

 彼らが信仰の歩みを全うすることが、今の私たちにとって重大なことであるように、私たちが信仰の歩みを全うすることは、彼らにとって重大なことのようです。彼らがどんなに素晴らしい信仰者であっても、彼らだけでは完結しないのです。私たちあってこそ、彼らもまた完結する。彼らも私たちも共に神の安息にあずかり、共に完全な状態に達するのです。

 だからこそ、既に信仰の生涯を忍耐強く走り抜いた彼らが、私たちの信仰生活に注目しているのだ、と言うのです。一人や二人ではありません。今日お読みしたところには、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と書かれているのです。信仰のゆえにのこぎりで引かれた人たち、剣で斬り殺された人たちもそこにいるのです。いわば彼らは、「わたしたちが苦しみを耐え抜いたことを無駄にしないでくださいよ、あなたたち抜きでは完成しないのですよ」と言いながら、私たちの信仰生活に注目しているのです。

 ですから次のように勧められているのです。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(1‐2節)。

 「忍耐強く走り抜こう」と表現されている信仰生活は、短距離走というよりもむしろ長距離走に喩えられるのでしょう。長距離をゴールに向かって走るときに、余計なものをごてごてと身につけて走る人はいません。負う必要のない重荷は極力降ろしていく必要があるのです。そのためには生活をシンプルにすること、物事の優先順位を明確にすることが不可欠なのでしょう。長距離を走るランナーは、ゴールに向かって走ることから、すべての優先順位を決めているわけでしょう。信仰生活も同じです。

 しかし、重荷以上に深刻なのは「絡みつく罪」の問題です。何かが絡みついてきたら走れなくなるでしょう。ここで「絡みつく罪」ということで具体的にどのようなことが念頭に置かれているかは、既に3章以下に見てきたとおりです。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(3:12‐13)。そのように書かれているように、第一に問題とされているのは不信仰なのです。苦難の中において、神の真実を疑い、心をかたくなにし、生ける神から離れてしまうことなのです。

 そうならないためにも二つのことを心に留めなくてはなりません。第一に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走るということです。イエス様から目を離さないことです。そのイエス様とは、特に「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」というイエス様です。

 そして第二に、旧約聖書に記されている次の勧告の言葉を忘れないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(5‐6節。箴言3:11‐12からの引用)。

 4章にも「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちからでないように、気をつけましょう」(4:1)と書かれていました。約束はまだ続いているのです。ですから苦難や困難があることは、私たちが神に見捨てられたことを意味しないのです。神の愛が失われたことを意味しないのです。神は変わることなく慈愛に満ちた父であり続けているのです。

 問題は私たちにそれが分かるかどうかなのです。この世の親子でも子が必ずしも父の意図を理解してはいないように、天の父との関係でもそれが起こります。大切なのは神が愛をもって私たちを子として取り扱っておられることを知ることなのです。

 そこには父の目的があります。聖書は私たちに、地上における父親と神様を対比してこう語ります。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(10‐11節)。

 父の目的は、私たちを清めることです。それは私たちが平和に満ちた実を結ぶようになるためなのです。「平和(シャーローム)」とは、神と共にあって神と調和して命が満ち溢れている状態です。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神様は訓練されるのです。私たちが神を離れ、罪を犯し、罪の実ばかりを実らせる者であることを神様が放っておかれるとしたら、それこそ恐ろしい裁きであるに違いありません。

 キリストに目を向け、父の意図を知る。そうあってこそ私たちは忍耐強く走り続けることができるのです。


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