ヘブライ人への手紙 4:12‐16
先週お読みしたところには、「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」(1節)と書かれていました。「取り残されてしまったと思われる者」とは、「万一にも、はいりそこなう者」という意味であると申しました。はいりそこなわないために重要なことは、続いて2節に書かれているように、「聞いた言葉」がそれを聞いた人と信仰によって結びつくことです。「聞いた言葉」とは、福音の言葉です。神の約束の言葉です。神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっており、神が安息しており、その神の安息にあずかる約束を告げる言葉です。
その「聞いた言葉」が聞いた人と信仰によって結びつけられなくてはならないのは、もう一方において、私たちが実際に目で見ている現実があるからです。それは聞いた言葉と対立するのです。この目で見ている現実としては、この世界は決して完成などしておらず、むしろ滅びへと向かっているものでしかないように見えるのです。私たちは救いへと招かれているのではなく、むしろこの世界の中で苦しみ悩みながら滅びていく存在としか見えないのです。実際に、ヘブライ人への手紙を読んでいる教会は、そのゆえに苦悩していたのです。そこには神の安息は見えないし、安息へと招いている神の善意が見えないのです。それゆえに見えるものは告げ知らされた言葉と対立するのです。
あるいはこう表現することもできるでしょう。――私たちはもともと目に見えるこの現実しか知らなかったし、これが全てだと思って生きていた。しかし、その目に見える現実の中に、約束の言葉、福音の言葉が切り込んできたのです。まだ目に見えないもの、しかし、確かに既に完成していて現れるのを待っているものを告げる、神の言葉が切り込んで来たのです。そして、その神の言葉は「信じること」を求めるのです。神の言葉を信じて、まだ見ていないものを既に見ているように生活することを求めるのです。そのようにして、信仰によって神の言葉を自分自身に結びつけるのです。
さて、告げ知らされた約束の言葉、福音の言葉を、「神の言葉」と言い換えました。それは今日お読みした12節によります。彼らが聞いてきた言葉をヘブライ人への手紙ははっきりと「神の言葉」と表現しているのです。
神の救いを告げる言葉、神の安息にあずかる約束の言葉が、「神の言葉」であるということは、人間の思索から出てきた言葉ではないということです。この目に見える世界の中から出てきた言葉ではないということです。それは外からの言葉です。神様の側から、向こう側からの言葉なのです。神は最終的に、御子なるイエス・キリストを通して語られた(1:2)と書かれていました。人間イエスが悟ってメシアになったのではないのです。御子が神の語りかけとして向こうから来られたのです。
今日の箇所においては、そのような「神の言葉」と私たちとの関わりについて語られているのです。そのような「神の言葉」を信仰によって自らと結びつけて生きるか否かが問題とされているのです。「神の言葉」を自らと結びつけるということは、純粋に神の御前における出来事です。それは何を意味しますか。誤魔化しがきかない、ということです。
教会における私たちの営みが単なる「聖書のお勉強」だったら、いくらでも誤魔化しはきくのです。単なる神学的な研究だったらいくらでも誤魔化しはきくのです。それが自分自身と本当に結びついているかどうかは、ある意味では問題とならないのです。しかし、私たちに告げ知らされている福音の言葉が、本当に神の言葉だったら、神から来ているものであるならば、誤魔化しがきくはずがありません。それはまさに私たちの最も深いところにまで切り込んでくるのです。
先ほど、この目に見える現実の中に切り込んできた言葉だと申しました。しかし、その言葉を私たちが信じて受け入れるならば、今度はその言葉が私たちの内にまで切り込んでくるのです。それは人間の存在の最も深いところにまで切り込んでくるのです。神の言葉とは、そういうものでしょう。信仰生活とは、そういうものでしょう。最も深い内面が関係しない信仰生活なんてあり得ない。生活の表面的なことにしか関係しない信仰なんて、あり得ない。今日お読みした箇所に書かれているのは、そういうことなのです。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(12節)。
神の言葉は刺し通すのです。そして、心の思いや考えを見分けることができるのです。この文の主語は私たちではありません。「神の言葉」です。そのことに注意してください。
一般的に誰かの「言葉」を聞くときには、私たちは聞く主体であって、様々な判断をくだしながら、「これは受け入れられる」とか「これは受け入れられない」とかを判断しながら聞いているのです。そのようにしながら、語っている人の心の思いや考えを見分けながら、聞いているのです。そして、神の言葉に対しても、私たちは自分を中心に置いて、聞く主体として、様々な判断を下しながら聞いているものなのでしょう。
しかし、忘れてはならないもう一つのことがあるのです。それはもう一方において「神の言葉」が私たちの心の奥底をしっかりと見分けているということです。神の言葉の方が、私たちを判断するのです。信じて受け入れたような《振り》をしてもだめなのです。神の言葉は生きていて、私たちが本当に受け入れているのか、信じているのか、しっかりと見ているのです。不信仰があれば、神の言葉が刺し通して、それを明らかにするのです。
それは昔から人々が経験してきたことなのです。もはや神の言葉の前には隠し立てすることはできない。そのことを思い知らされてきたのです。それゆえ彼はさらにこう続けます。「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(13節)。
神の御前でなければ、私たちは他の人のことを言っていられるのです。神が語られるところにいるのでなければ、私たちが他の人について語れるのです。あの人が悪い、この人が問題だ。家族が悪い、政治家が悪い、世の中が悪い、と。しかし、神の言葉が私たちの最も深い心の思いや考えにまで及び、神の御前においてすべてがさらけ出されていることを知るなら、私たちはもはや他人を問題にしているわけにはいきません。問われているのは私たち自身だからです。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。神が私たちに語られるとは、そういうことです。
それはある意味で恐ろしいことでもあります。知られているということは恐ろしいことです。心の思いや考えまでも判断されているということは恐ろしいことです。エデンの園においてアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れました(創世記3:8)。彼らがしたことは私たちにも良く分かります。まことに神が語られるところに身を置いて、私たちが他の誰かではなく自分自身のことを申し述べねばならないとするならば、神の顔を避けて、隠れたくもなるのでしょう。
さて、ここに私たちの直面せざるを得ない大きなジレンマがあります。私たちに告げ知らされているのが神の言葉でなく、この世から出たもの、人から出たものでしかないならば、所詮は私たちの目に見ている現実が全てなのであって、私たちに救いはありません。救いを告げる言葉が「神の言葉」であってこそ、本当に救いとなるのです。しかし、もう一方において、告げられている言葉が本当に「神の言葉」であるならば、それを聞いている私たちは、いかなる取り繕いも誤魔化しも為しえません。それは恐ろしいことでもあります。その意味で、「神の言葉」は両刃の剣なのです。それは完全なる救いの言葉であると同時に私たちの深いところまでえぐり出し切り裂く裁きの言葉でもあるのです。
それゆえに14節以下に書かれていることが重要なのです。「偉大な大祭司イエス」というテーマです。この大祭司であるイエス様については、既に2章において次のように書かれていました。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(2:17)。この14節以下で、同じテーマが繰り返されます。そして、このテーマが5章以下で本格的に展開されるのです。
14節以下の部分については、後に繰り返しこの言葉に戻ってくることになるでしょう。ですから、今日は詳しく述べることはいたしません。大事なことは、この大祭司イエスがおられるゆえに、神の言葉をまさに神の言葉として安心して受け取ることができるし、信じて生きることができるということです。ですから、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と励まされているのです。そして、私たちはその御方のゆえに、大胆に恵みの座に近づくことができるのです。
(祈り)