2023年8月2日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:1~19

 ヘブライ人への手紙 7:1‐19

 前回お読みした箇所の最後には、「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じ大祭司となられたのです」(6:20)とありました。5章10節からしばらく中断していましたが、再び「メルキゼデクと同じような大祭司」というテーマに戻ってきたことになります。イエス様が大祭司であるということについて言うならば、既に2章17節以降より繰り返し語られてきました。このことを理解することがいかに大事であるかが伺えます。

 ところでこれまで当然のごとくイエス様は大祭司であると語られてきて、わたしたちも特にそのことを問題にしなかったわけですが、実は一般的なヘブライ人、すなわちユダヤ人にとりましては、そこにどうしても見過ごすことのできない問題があるのです。何でしょう。イエス様は肉においてはダビデの子孫であるということです。

 ダビデはユダ族の出身です。ということでイエス様もユダ族の末裔ということになります。しかし、モーセの律法によるならば、祭司はレビ族でありアロンの子孫でなくてはなりません。今日お読みした13節以下にもその点が触れられています。「このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです」(13‐14節)。このように、本来キリストが大祭司であるという話は、まことに受け入れがたい話なのです。

 それゆえに、キリストがただ大祭司であると語られているだけでなく、「メルキゼデクと同じような大祭司」であると語られているのです。この「メルキゼデクと同じような」という言葉が決定的に重要な意味を持つのです。この言葉は詩編110:4から来ています。

 新共同訳では、「わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)」となっていますが、これは「あなたは永遠にメルキゼデクと同じような祭司である」とも訳せるのです。さらに言えば、「あなたはメルキゼデクの職制に従って永遠に祭司である」とも訳せます。

 この詩編はイエス様も引用して論じました(マルコ12:36)、メシア預言として読まれる詩編なのです。そこにおいてそう語られているということは、要するに、「メシアはモーセ律法に定められた職制によってレビ族から出る祭司なのではない。それとは別の職制によってメルキゼデクと同じような祭司なのだ」ということになるのです。そしてさらに、モーセ律法による祭司よりも、メルキゼデクと同じ祭司の方が優っているのだということを語ろうとしているのです。

 そこで私たちは、そもそもメルキゼデクなる人物はどこに出てくるのかを見ておきたいと思います。創世記14:17以下を御覧ください。この章に書かれているのはアブラハムの甥であるロトとその家族が連れ去られた時、アブラハムが彼らを救出したという話しです。そしてアブラハムが勝利を得て帰って来たとき、そこで出迎えた人物が二人いたのです。一人はソドムの王です。そして、もう一人が「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」なのです。彼はパンとぶどう酒を持ってきて、アブラハムを祝福するのです。するとアブラハムはすべての物の十分の一を彼に贈ったのでした。

 さて、このメルキゼデクなる祭司は何者か。聖書には何の説明もありません。謎に満ちた人物です。後にも先にもここしか登場しません。ですから、ヘブライ人への著者はこう語ります。「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」(3節)と。

 そして、重要なのは彼がアブラハムを祝福し、すべての十分の一を受け取ったということなのです。確かにレビの子孫である祭司は、民から十分の一を受け取ることが律法によって定められていました。しかし、この時点はモーセが律法を受け取るずっと前であり、そもそもまだレビ族なるものは存在していないのです。レビはアブラハムのひ孫なのですから。レビの曽祖父であるアブラハムが十分の一を献げたということは、アブラハムの中に潜在的に存在するレビが十分の一を献げたということでもある、と言えるでしょう。

 しかももう一つ重要なことが書かれています。メルキゼデクがアブラハムを祝福したということです。祝福するとしたら、上の者が下の者を祝福するのです。ということで、メルキゼデクという謎の祭司の方が、アブラハムの中にいるレビよりも偉大なのであり、したがってレビ族の祭司よりも偉大だ、というわけです。なるほど筋が通っています。

 そのように詩編110編は、主なる神が、レビ族の祭司よりも偉大なメルキゼデクと同じような祭司を立てたのだということを語っているのです。それがメシア、すなわちキリストであると。しかも、主なる神は、あなたは永遠にそのような祭司であるとメシアに語っているのです。

 なぜこのことが重要なのでしょう。それは、モーセの律法に基づく祭司制度が不完全であることを意味するからです。「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(11節)。そう言われれば、なるほどそのとおりでしょう。モーセの律法に基づく祭司が、人間に完全な罪の赦しをもたらし、神と人間との正しい関係を回復し、交わりを回復するのに十分であるならば、メルキゼデクと同じような別な祭司は必要ないはずです。しかし、神はあえてメルキゼデクと同じような祭司、すなわちモーセの律法に基づかない祭司を立てた。それはなぜか。先のものが不完全だからです。

 そして、それはもう一つのことを意味しています。それはモーセの律法に変更があったということです。「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」(12節)と書かれているとおりです。

 モーセの律法に変更があったという主張は、ユダヤ人が聞いたら天地がひっくり返るような驚くべき主張です。しかし、その驚くべきことが起こったのだと著者は言っているのです。実際、先にも触れましたように、メシアはレビ族ではないのです。ダビデの子孫なのですから。そのメシアが永遠に祭司であるならば、それは明らかにモーセの律法に反するのです。ユダ族から祭司が出るなんてことは律法に書かれていないのですから。

 ということで、律法に変更があった。いや、さらに言うならば、無力だから廃止されたのだとさえ言えるでしょう。18節にははっきりと次のように書かれています。「その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」。それはどのような仕方で廃止されたのか。既に16節にこう書かれていました。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです」(16節)。そのように、新しい別の祭司は、もはや肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。ここで著者が念頭に置いているのはイエス様の復活でしょう。復活したキリストであるゆえに、永遠の祭司であり得るのです。それはまさに、命の力によって立てられたとしか言いようがないでしょう。

 このように不完全な律法が廃棄されたのは何のためか。他方において、もっと優れた希望がもたらされるためでした。「しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました」(19節)。メルキゼデクと同じ祭司が立てられたこと、すなわちイエス・キリストがそのような大祭司となってくださったのは、わたしたちが与えられた、もっと優れた希望によって、神に近づくためなのです。「わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」。

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