サムエル記下18:19‐19:1
今日の箇所において繰り返されているのは「良い知らせ」という言葉です。これは名詞と動詞の形で出てきます。20節の「知らせる」「報告する」も同じ言葉ですから、日本語で見るよりも原文ではずっと多くなります。この箇所を理解する上で、この「良い知らせ」とは何かということが重要な意味を持っていることが分かります。
前回お読みした部分を振り返っておきましょう。ダビデは当初共に出陣するつもりでいましたが、兵士たちの言葉により町に留まることとなりました。そこで三部隊の長であるヨアブ、アビシャイ、イタイに命じてこう言ったのです。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」(5節)。この三人だけでなく、「兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた」(同)と書かれています。
しかし、ヨアブは既にアブサロムを討ち取るつもりでいました。実際、アブサロムを討ち取る好機が訪れたとき、ためらうことなくヨアブとその部下たちはとどめを刺したのです。ヨアブがそう考えていたのは全く政治的な理由からでした。いわば王国の将来を考えてのことだったのです。
アブサロムさえ討てばクーデターは失敗に終わり戦いは終結します。これ以上、イスラエルの兵士が死ぬ必要はなくなります。事実、アブサロムにとどめが刺されると、ヨアブは角笛を吹いて、それ以上イスラエル軍を追跡しないよう兵士を引き留めたのです。ヨアブにとって、この結末は最善以外の何ものでもなかったのです。
さて、ここに改めて登場するアヒマアツにとっても、ヨアブとは異なった観点において、これは最善の結末だったのです。ですから、彼はこの「良い知らせ」を、なんとしてもダビデに伝えようといたします。「どんなことになろうと、わたしもクシュ人を追って走りたい」と主張する彼の熱意は異常にさえ思えます。このアヒマアツの行動を理解するためには、彼が何者かを思い起こす必要があります。ですので、ここでわざわざ「ツァドクの子アヒマアツ」と呼ばれているのです。
ツァドクは祭司です。15章24節を御覧ください。ダビデがエルサレムを追われた時、ツァドクをはじめレビ人全員が神の契約の箱を担いでエルサレムを出て、ダビデに従おうとしていたことが書かれていました。つまり祭司たちは、神の箱はアブサロムと共にエルサレムに留まるべきではないと判断したのです。神の箱はあくまでもダビデと共にあるべきだと。彼らにとってアブサロムは、ただダビデに反逆した者ではないのです。神の油注がれた者に戦いを挑んでいる者なのです。すなわち神に敵対する者なのです。
しかし、ダビデは彼らをエルサレムに帰したのです。ダビデはそうして、自らを神の懲らしめの御手に委ねたのでした。しかし、当然のことながら、ツァドクら祭司としては、アブサロムがそのままエルサレムで王位につき、聖所を支配するようになるとは思っていないのです。それが御心に適ったことであるとは、到底思えなかったに違いない。ですからツァドクが素直にエルサレムに戻ったのは、あくまでもエルサレムの様子をダビデに伝えるためだったのです。
そのツァドクの子アヒマアツも、同じ思いを共有していたからこそ、危険に身をさらしてさえ、伝令の役目を引き受けたのでしょう。そのようなアヒマアツにとって、アブサロムが倒れたことは、政治的な観点からではなく、信仰的観点から見て、まさにダビデに伝えるべき「良い知らせ」だったのです。
さらに言うならば、彼はダビデが将軍らにアブサロムを保護するよう命じたことは聞いていないのです。アヒマアツは兵士ではありませんから。ですから彼はヨアブに言うのです。「走って行って、主が王を敵の手から救ってくださったという良い知らせを王に伝えます」。彼にとって、これは「主の勝利」に他ならない。だから、どうしてもこの主の勝利の良い知らせをダビデに伝えようとしたのです。
しかし、ヨアブには分かっているのです。ダビデはこれを決して「良い知らせ」とは受け取らない、と。ですからヨアブは「今日、お前が知らせるのは良くない」と言ってアヒマアツを引き留めます。ヨアブは「王の息子が死んだのだ」と言ってアヒマアツに説明し、留めようとするのです。かつてイシュ・ボシェトが殺された時、その知らせを伝えた者が処刑されたこと(4章)をも思い起こしたのかも知れません。ですので、彼は代わりにクシュ人を報告に遣わそうとするのです。
ところが、アヒマアツはどうしてもダビデに伝えると言って聞きません。彼がどれほど純粋にこの結果を信仰的な事柄として受け止めていたかが分かります。すなわち、誰が何と言おうと、これは善なることなのです。イスラエルにとって最も良き結末であったと確信しているのです。ヨアブは根負けして、彼が行くことを許可します。アヒマアツはクシュ人を追い抜くほどにひたすら走ります。
一方、ダビデはマハナイムにおいて、良い知らせを待っていました。しかし、人間が待ち望む「良い知らせ」と、神が与えようとしている「良い知らせ」は、必ずしも一致するとは限りません。神は確かに御自身の正義を貫かれ、そしてダビデを救われたのです。ダビデは再びエルサレムで王位に着くのです。それが神の目に正しいことであり、神が与えようとしていた「良い知らせ」でした。しかし、ダビデが待っていた「良い知らせ」とは、アブサロムの無事に他なりませんでした。
24節以下には、人間がいかに自分が考える「良い知らせ」を待っているものであるかが、滑稽なほどに強調されて描かれています。見張りは、一人の男が走ってくることをダビデに伝えます。ダビデは「一人だけならば良い知らせをもたらすだろう」と全く根拠のないことを言います。しかし、実際には一人ではなく二人でした。また一人走って来ることが伝えられると、「これもまた良い知らせだ」と言うのです。そして、アヒマアツのようであることが伝えられると、「良い男だ。良い知らせなので来たのだろう」と言うのです。滑稽ですが、これが往々にして私たちのしていることです。自分が考える「良い知らせ」をひたすら待ち望み、そのような知らせが伝えられるであろうと一生懸命に思い込もうとしているのです。
アヒマアツはダビデに主の勝利と救いとを伝えました。「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました」(28節)。しかし、ダビデの第一声はアヒマアツを驚かせます。王はこう聞いたのです。「若者アブサロムは無事か」と。
アヒマアツは事態を悟りました。ゆえにアブサロムが死んだことを伝えることをためらいます。彼はこう答えるのです。「ヨアブが、王様の僕とこの僕とを遣わそうとしたとき、大騒ぎが起こっているのを見ましたが、何も知りません」。
するとそこにクシュ人が到着し、アヒマアツと同じことを伝えます。「主君、王よ、良い知らせをお聞きください。主は、今日あなたに逆らって立った者どもの手からあなたを救ってくださいました」。王はクシュ人にも尋ねます。「若者アブサロムは無事か」と。クシュ人は、アブサロムの死を伝えます。「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」
これを聞くと、ダビデはすぐにアブサロムが死んだことを悟ります。ダビデは城門の上の部屋に上って「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ」と言って泣いたのでした。
自然な情としては当然のことです。しかし、この嘆きを単に自然なこととして肯定してはなりません。ここで嘆いているダビデは、かつてアブサロムに対して神の前における罪を問わないで王宮に戻してしまった、あのダビデに他ならないのです。罪に対する主の裁きを決して見ようとしないダビデなのです。信仰的な人が、こと家族のことになると、もう神との関わりはどこかに行ってしまって、肉的な観点からしか見られなくなることは起こるものです。ダビデの姿は、私たちの姿であるかも知れません。