2026年8月9日日曜日

「互いに仕え合いなさい」

聖書:エフェソの信徒への手紙 5:21-33

互いに仕え合いなさい
 今日はエフェソの信徒への手紙5章21節からお読みしました。この章の22節から6章9節までには、夫婦、親子、奴隷と主人が、具体的にどのように生活したら良いか、ということについて書かれています。奴隷と主人については、今日においては社会における労使関係に置き換えて考えてもよいでしょう。もちろん、これで信仰者の関わるこの世の全ての人間関係が言い尽くされているわけではありません。しかし、すべての関係について考えるための土台となるべき原則をパウロはその冒頭に記しています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)。私たちはまず、この御言葉を心に留めたいと思います。

 「互いに仕え合いなさい」とあえて言葉にして勧められているのは、そのような行動が自然には生まれてこないからであるとも言えます。私たちは「仕える」ことではなく、「仕えさせること」「支配すること」を考えて生きているものだからです。

 「いいえ、私はそんなことは考えていません」と言う人がいるかも知れません。しかし、現実に誕生以来のあらゆる人間関係を考えてみてください。その中心には誰がいますか。自分です。私たちは生まれた時から様々な人間関係を、自分を中心として構築してきたのです。他の人間を「わたしにとってどのような存在であるか」という目で見て判断してきたのです。「私にとって良い両親か」「私にとって良い教師か」「私にとって良い友人か」「私にとって良い夫か(妻か)」。そのようにすべての人を「私にとって」どういう存在であるかと評価しながら生きているのです。

 それは言い換えるならば、私に仕える存在として見ているということです。ですから自分の思い通りにならないと苛立ちます。腹が立ちます。そのように人は程度の差こそあれ、他者を「仕えさせよう」として生きているものです。それが私たち人間が自然に持っている傾きなのです。だからこそ、その傾きに逆らって、聖書はあえて言葉にして勧めるのです。「互いに仕え合いなさい」と。

 しかし、パウロはただ「互いに仕え合いなさい」とだけ勧めているのではありません。彼はそこに大事な一言を加えています。「キリストに対する畏れをもって」。――互いに仕えるということを考える時、ただ相手と自分のことだけを考えていてはならないのです。私たちはまずキリストに目を向けなくてはならないのです。

 それはなぜでしょうか。キリストこそ、私たちに仕えてくださった御方であるからです。「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味であり、その第一に意味するところは神によって任職された「王」です。しかし、王である御方は、力をもって服従させる権利を放棄され、自分を捨て、十字架を背負われ、その十字架について死なれたのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と書かれているとおりです。

 キリストがそのように仕えてくださったのは、私たちの罪の贖いのためであったこと思い起こさなくてはなりません。キリストは私たちの罪が赦されるために仕えてくださったのです。キリストは、罪人である私たちを愛し、赦し、受け入れて、私たちのために仕えてくださったのです。そうです。キリストにとって「仕える」とは、私たちを赦し、受け入れることでもあったのです。

 そのような「キリストに対する畏れをもって」互いに仕え合うようにと勧められているのです。「畏れる」とは怖がることではありません。キリストが仕えてくださった事実、愛し、赦し、受け入れてくださった事実を、真に重んじるということです。それはすなわち、キリストが私たちを赦し、受け入れてくださったように、私たちもまた互いに赦し合い、受け入れ合うということに他なりません。

 私たちが互いに仕えるということを考えるならば、ただ相手と自分のことを考えるだけでなく、このキリストに目を向けることがどうしても必要になってくるのです。実際、そうではありませんか。「互いに仕え合う」ということを何が困難にさせるのか。それは相手に受け入れがたい部分があるという事実でしょう。時として互いに相手が赦し難くなるという事実ではありませんか。それはいかなる人間関係においても起こり得ることでしょう。私たちは天使ではありません。互いに罪を持った人間です。その罪人同士が仕え合うとするならば、それは互いに赦すこと、受け入れることを抜きにしてあり得ないことなのです。

 ならば私たちは、まず私たちを赦し、受け入れてくださったキリストに目を向けることが必要なのです。まず自分自身が受け入れていただいた罪人なのだという事実に目を向けるしかないのです。それゆえに「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と勧められているのです。

キリストの体の一部として
 そこでさらに今日与えられた聖書の言葉に耳を傾けましょう。ここでは特に、夫婦の関係について書かれています。ここを読みましてまず気が付きますのは、話がかなり混線しているということです。夫と妻のことを話しているのか、キリストと教会の話をしているのか、どうも良く分かりません。これはある意味では仕方のないことです。パウロは話の構成を考えながらパソコンで文章を打っているわけではないからです。彼の手紙はほとんどの部分が口述筆記なのです。彼が思うままに語り、それが筆記されたものなのです。

 いや、これは単に「仕方のないこと」であるだけでなく、むしろこのような混線が起こっていること自体が私たちに大事なことを教えているとも言えます。パウロは夫と妻の関係を語る時に、どうしてもキリストと教会のことを思わずにはいられなかったということです。つまり夫婦関係についての話題とキリストと教会についての話題は、パウロにとって異なる別の話ではなかったということなのです。

 一方、私たちはどうでしょう。結婚とか家庭の事柄を考える時、そこで同時にキリストと教会のことを考えるでしょうか。もしかしたら、キリストのことは考えるかも知れません。キリストが仕えられたように、私たちも仕えなくてはならないと。しかし、ここで重要なのは、パウロが「教会」をも考えていたということです。夫婦の事柄は教会と深く結びついているのです。

 30節に「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」と書かれています。「キリストの体」ということでパウロが考えているのは教会です。私たちは教会、すなわちキリストの体の一部として夫婦生活を送り、家庭生活を送り、社会生活を送っているのです。「家庭のことは家庭のこと。教会のことは教会のこと」ではないのです。

 さらに言うならば、パウロはただ教会を思いつつ夫婦関係について語っているというだけではありません。「キリストがどれほど教会を愛しているか」ということを思いつつ語っているのです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(26‐27節)。

 キリストは**わたしの**罪のために十字架にかかってくださった――もちろんそうです。しかし、それだけを考えていてはならないのです。キリストは**教会のために**御自分をお与えになったのです。25節にそう書かれていますでしょう。

 26節に「言葉を伴う水の洗い」と書かれていますが、これが「洗礼」を指していることは明らかです。「洗礼」はただ個人が受けるだけではありません。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」と書かれています。「言葉を伴う水の洗い」すなわち「洗礼」は教会に授けられているのです。私たちが教会を見る時に、「これは洗礼を受けた教会なのだ」と考えねばならないのです。

 教会の歴史を考えても、私たちの教会の現実を考えても、それはある意味で罪に汚れたボロボロのありさまかもしれません。しかし、それは水の洗いを受けて、罪を赦された教会なのです。そのようにしてキリストによって受け入れられた教会なのです。そして、最終的には御自身の花嫁として、聖なる汚れのない教会、栄光の教会を御前に立たせるために、キリスト御自身が心にかけ関わってくださっている教会なのです。それほどにキリストは御自身の体である教会を愛しておられるのです。

 パウロは「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」と言うのです。そのように言えたのは、キリストと教会のことをも考えているからなのです。夫と妻の場合は、あくまでも自分の体「のように」と書かれています。しかし、キリストの場合は教会を文字通り御自分の体としてくださっているのです。夫婦については、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語られています。しかし、それが完全な意味で実現しているのは、第一にはキリストと教会においてなのです。ですからわざわざパウロは、「この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです」(32節)と言っているのです。

 なるほどこれは驚くべき神秘です。私たち自身が、まさにキリストと一体とされるほどの愛をもって愛されているのです。一体とされるほどに、受け入れられているのです。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」とはそういうことです。そのようなキリストと教会の関係の中に、体の一部として私たちは置かれているのです。

 そのようなキリストにまず思いを向け、キリストの体の一部として受け入れられている自分自身であることに思いを向けてこそ、ここに書かれている夫と妻とに関する勧めの言葉も意味を持つのでしょう。いや夫と妻との関係だけではありません。私たちはあらゆる関係を、「教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」キリストと教会との関係を思いつつ、建て上げていくことを期待されているのです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と。

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