2023年9月13日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 10:19~25

 ヘブライ人への手紙 10:19‐25

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(19節)。

 ここまでの話で明らかなように、ここで「聖所に入れる」と言われているのは、エルサレムの神殿の聖所に入れるということではありません。本当の意味で神の御前に出るということです。神に近づくということです。神との交わりに入り、神と共に生きることです。22節の終わりにも、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と勧めています。これまでの話は全て、私たちは聖所に入れるのだ、私たちは神に近づくことができるのだ、ということを語るためだったのです。

 度々お話ししていますとおり、この手紙が書かれた時点では、教会は既に大きな迫害を経験しており、なお様々な困難の中にありました。それぞれの試練の中に生きていたのです。そのような彼らに対して、この著者は、いかに苦難を切り抜けるかということを語るのではなくて、神に近づくべきことについて語るのです。

 人は苦境から解放されることを望みます。悩みが取り除かれること、悲しみが癒されることを求めます。そして、求めて良いのだと思います。しかし、人間にとって本当に必要なことは、そして最終的な救いとなることは、たとえ困難の直中にあっても神に近づけることなのです。神との交わりが与えられることなのです。その交わりの中で、真に神の与えてくださる希望をもって、天の故郷を目指して生きることなのです。そのような意味において、「兄弟たちよ、わたしたちは聖所に入れるのだ」と語っているのです。

 それはただ一重に「イエスの血によって」なのです。天の聖所の写しである地上の聖所に仕えていた大祭司という存在が指し示していたまことの大祭司として、キリストはただ一度完全なる罪の贖いの祭儀をなしてくださり、またその大祭司は永遠に生きていて、常に生きていて、私たちのために執り成していてくださる。しかも、その大祭司が罪の贖いの犠牲として捧げたのは、動物の血ではなくて、御自分の血でありました。イエス様は、そのように大祭司となり犠牲となってくださった。それが「イエスの血によって」という言葉に込められている意味です。

 それがここでは別な表現を得ています。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(20節)。つまり、イエス様のしてくださったことは何であるのかと言えば、それはイエス様が私たちのために道を開いてくださった、ということなのです。聖所への道を開いてくださった。すなわち神の御前に出る道を開いてくださったのです。

 実は、細かいことを言いますと、「御自分の肉を通って」という翻訳よりは、「御自分の肉を通って行く」とした方が良いように思われます。この訳ですと、イエス様が御自分の肉を通って道を開いたことになりますでしょう。もちろんそれも訳の一つの可能性です。しかし、もう一つの訳の可能性は、「御自分の肉を通って行く、新しい生きた道を開いてくださった」です。すなわちそこを通るのはイエス様ではなくて、私たちなのです。そして、その方が正しいように思われます。なぜならここでは「垂れ幕、つまり、御自分の肉」と言われているからです。

 既に見てきたように、それまでは神殿の垂れ幕にしても、幕屋の垂れ幕にしても、大祭司以外は通ることができなかったのです。それを通る道はなかったのです。しかし、その垂れ幕を「通って行く」道が開かれたのです。どのようにしてでしょう。垂れ幕が裂かれることによってです。

 そこで私たちが思い起こしますのは、福音書が伝えている十字架の場面です。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:37-38)。そのように伝えられています。ヘブライ人への手紙の著者が念頭に置いているのも、恐らくはこの出来事であろういと思われます。

 イエス様の肉が、ちょうどあの最後の晩餐のパンのように裂かれたその時に、神殿の垂れ幕も裂かれたのです。そのようにして聖所への道が開かれたのです。人は、いわば裂かれたキリストの体を通って、聖所へと入っていくのです。キリストの肉を通って聖所へと入っていく、新しい生きた道を、キリストはわたしたちのために開いてくださったのです。そして、それは「生きた道」と呼ばれているように、決して死んでしまわない道、閉ざされてしまわない道なのです。永遠に開かれた道なのです。

 ここにおいて、私たちが神に近づき、礼拝し、祈るということのイメージがはっきり見えてきます。私たちは礼拝する時、祈るとき、天の至聖所に入っていくのです。垂れ幕で仕切られていた所に入っていくのです。そのように、本来私たちが決して近づき得ない聖なる御方に近づいていくのです。それが礼拝であり、祈りなのです。

 かつて大祭司が雄羊と雄牛の血を携えていったように、私たちもまた見えざるキリストの血を携えて神に近づくのです。キリストの血潮による罪の赦しなくして、罪人である私たちは神に近づき得ないからです。そして、私たちが聖所に入っていくのは、キリストが開いてくださった道を通ってです。そこにあったはずの垂れ幕は既に引き裂かれてしまっています。十字架において裂かれたキリストの体、裂かれたパンによって表されているキリストの体です。私たちは裂かれたキリストの御体を通して開かれた見えざる道を通って天の聖所に入り、神に近づくのです。

 そこには血を流してくださった方が復活されて、偉大なる祭司として仕えていてくださいます。私たちのためにこの方が執り成していてくださるのです。私たちはもはや良心の咎めによって苦しむ者ではありません。特にこの大祭司のもとにおいて授けられる、「洗礼」という聖礼典が、見える形でこの恵みを表わしています。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われている」と書かれています。そのような者として神に近づくことができるのです。ですから、聖書は私たちに次のように力強く勧めるのです。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と。

 私たちにそのように神に近づく道が開かれていること、神に近づこうではないかと勧められていることは、直接私たちの希望を関係しています。というのも神に近づいてこそ、困難の中にあってなお、希望を保ち続けることができるからです。

 人はいかにして現実を突き抜けて未来に思いを向けることができるのか。それは未来を手にしておられる方の真実なることを知り、その御方に信頼することによってです。未来を手にしておられる真実なる神は、私たちに約束を与えてくださっているのです。既に語られましたように、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているのであって、神の業は既に出来上がっているのです。時間の中にいる私たちにはまだ見えません。しかし、必ずそれが現れる時が来るのです。その安息に与る約束を与えられているのです。その希望を保ち続けるためには、繰り返し繰り返し、神に近づくことが必要なのです。

 しかし、またそれは互いに励まし合いながらでなくてはできないことです。だから「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(24‐25節)と語られているのです。神に近づくこと、また励まし合うことの意味を知る人ならば、困難の中にある時こそ、集まって共に礼拝することを切に求めるようになるはずです。


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