2023年8月9日水曜日

祈祷会用:ヘブライ人への手紙 7:20~28

 ヘブライ人への手紙 7:20-28

 先週は、なぜキリストが「メルキゼデクと同じような祭司」と言われているのか、なぜそのことが重要なのかについてお話ししました。先週お読みしたところを少し振り返っておきましょう。

 「メルキゼデクと同じような祭司」というこの表現は詩編110:4から来ています。詩編110編はイエス様御自身も引用して語っておられますが、これはメシア預言として読まれてきた詩編です。

 メルキゼデクと同じような祭司ということは、要するに律法によって定められたレビの系統の祭司ではない、アロンと同じような祭司ではない、ということです。なぜこのようなことが語られなくてはならなかったかと言うと、メシアはダビデの子孫であり、ユダ族に属するからです。メシアが祭司であるとするならば、明らかにレビ族の祭司ではないのです。

 では律法によるレビの系統の祭司と、メルキゼデクと同じような祭司と、どちらが優っているのでしょう。すなわちどちらが本来的な祭司なのでしょう。それはメルキゼデクと同じような祭司なのだとこの著者は語ります。その根拠として挙げられていたのは創世記14章でした。そこに祭司メルキゼデクが出てきます。律法が定められるずっと以前に、アブラハムを祝福し、アブラハムから十分の一を受けた祭司がいる。つまり、アブラハムの中にいるレビもまた彼から祝福を受け、十分の一を献げたことになるのです。

 そのような本来的なメルキゼデクと同じような祭司が立てられたということは、律法による祭司制度が不完全であることを意味します。また、祭司としてのメシアが立てられたことによって、祭司制度が変更され、従って律法が変更されたことを意味し、さらには以前の掟が弱く無益なために廃止されたことを意味するのです。メシアが到来するとはそういうことなのです。

 そして、そのメシアは到来したのです。人類史上に決定的なことが起こったのです。イエスという御方こそ、完全なる祭司、メルキゼデクと同じような祭司であるのです。それが先週お読みした部分です。今日はその続きです。

 この著者はさらに詩編110編において「主が誓った」ということに注目します。こう書かれているからです。「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である』」。レビの系統の祭司が立てられることについては、神が誓われたということは記されていません。しかし、メシアについては、神の誓いによってメルキゼデクに等しい祭司として立てられているのです。その点においても、メシアは律法に基づいて立てられた祭司たちよりも本来的な祭司であることがわかります。

 神は特別に誓いをもって祭司を立てられました。以前にも触れましたように、誓いというのは、現在の私たちで言えば、判をついて契約書を交わすようなものです。それは約束についての保証なのです。人間ならば通常は自分よりも偉大なものを指して誓うわけであって、自らよりも偉大なもののない神が誓うというのは変なのですが、その変なことを語るほどに、これは確実なことだということであり、信頼を求める言葉であるということです。何を信ずべきなのか。メシアこそレビ系統にまさった本来的な祭司であること、そしてさらに彼は永遠に祭司であることです。「あなたこそ、永遠に祭司である」と。

 このことが、当時の教会にとっても、また今日の私たちにとっても極めて重要なことなのです。イエス様は私たちにとっていかなる御方であるかを決定的な仕方で指し示す言葉だからです。

 レビの系統の祭司たちの場合には、律法に従って人間が祭司に任命されます。死に定められた人間が祭司となるのです。それゆえに、務めをいつまでも続けることはできません。次々と任命が繰り返されることになります。

 イエス様の場合も同じように、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ」(5:1)と書かれているように、私たちと全く同じ人間として、人間の中から選ばれました。しかし、この御方がかつてのレビ系統の祭司と決定的に異なるのは、十字架のみならず復活を経て、永遠に生きておられるということです。「しかし、イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです」(24節)。

 この手紙は「ヘブライ人への手紙」と呼ばれているように、読者としてはユダヤ人キリスト者が想定されています。そして、ユダヤ人にとっては、繰り返し任命されて連綿と続いてきたレビの系統の祭司という存在こそ、神との契約の目に見える保証であるのです。彼らが担っている務めこそが、罪を贖い交わりを回復する務めであったのです。少なくともそのように教えられて育ったのです。

 一方、彼らはキリスト者としてはいわば第2世代ですから、生前のイエスを直接触れ合ったわけではありません。ですから、目に見えるという意味においてなら、神殿の祭司の方がずっと続いていて自分たちと関わっている存在なのです。(もっともAD70年における神殿の崩壊と共に祭司制度も崩壊していくわけですが。)

 それゆえに、イエス様が「永遠に生きている」として語られると共に、イエスが「常に生きていて」人々のために執り成していてくださることが、あらためて指し示されなくてはならなかったのです。「常に」という言葉が示しているのは、その時代その時代に生きる人々とイエス様との関わりであるからです。

 それは時間的な距離感としてはもっと遠い私たちにとっては、さらに重要な意味を持っていると言えるでしょう。二千年前のイエスと現代の私たちといかなる関係があるか、と世の人は問います。永遠なる祭司としての任命、またそれを現実とするイエス様の復活がなければ、せいぜいイエスの教えが今も生きていると言えるぐらいのことでしょう。しかし、この著者は言うのです。イエスは復活して「常に」生きておられる。だから私たちと関わりがあるのだ、と。「それでまた、この御方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(25節)。

 また、さらにこの御方がレビ系統の祭司と決定的に異なる点が語られています。律法による大祭司は、まず自分の罪のために、次の民の罪のために毎日いけにえを献げる必要がありました。しかし、この御方は自分のために罪の贖いの犠牲を献げる必要はありません。なぜなら、この御方は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(26節)であるからです。

 しかも、この御方が献げる犠牲は、罪を取り除くことにおいて不完全であるために毎日献げられねばならない犠牲ではなく、ただ一度にして完全に人間の罪を取り除く犠牲である御自分の体だったのです。このことについては9章に詳細に論じられることになります。

 このように比較されてきましたレビ系統の祭司と大祭司キリストの両者は、共に神の言葉によって任命されたと言えます。一方は律法によって。もう一方は既に見てきたように神の誓いの言葉によってです。一方は弱さを持った人間を大祭司に任命するものでしたが、他方は永遠に完全な者とされている御子を大祭司として任命するものだったのです。

 このようにイスラエルの長い歴史の中で続けられてきた律法による祭司の任命は、この地上においてただ一度だけなされる完全な罪の贖いを為し、永遠に生きて執り成しを続ける真の大祭司の任命を予表するものであったことが分かります。そのように予告編を見続けてきた人類の歴史は、ついにキリストの到来をもって本編を見ることになったのです。私たちはそのような時代に生きているのです。この御方は、御自分を通して神に近づく私たちを完全に救うことがおできになるのです。


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