ヘブライ人への手紙 11:17~40
先週から11章に入りました。ここは信仰者列伝と呼ばれる箇所です。その冒頭には、信仰が何であるかが短く次のように表現されていました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。そして、実際にそのように生きた人々が次々と登場するのです。今日はその後半部分を見ていきましょう。
先週、特にアブラハムについて見たわけですが、今日の箇所でもその話が続いています。まず著者が目を向けているのは、ご存じのようにアブラハムがイサクを焼き尽くす献げ物として献げよと命じられた話です。創世記22章を見ますと、アブラハムがイサクをモリヤの山に連れて行き、刃物を取ってイサクを屠ろうとした次第が書かれていますが、それは「信仰によって」なのだと著者は語っているのです。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と約束を受けたアブラハムが、その独り子であるイサクを屠るということが何を意味するかに目を向けさせるのです。
目に見えるところでは、約束に反する方向にことは進んでいるのです。目に見えるところでは、神はどう考えても不真実なのです。創世記の話では、屠ろうとしたまさにその時に神が御使いを通してストップしたことが書かれています。結果的にはイサクは死ななかった。確かにそうです。しかし、アブラハムの心の中では、モリヤへと出発した時から既にイサクは死んでいるのです。神がストップしてくれることは前提になっていないのですから。
死んでしまったら、それが結論であるように見えるでしょう。神が真実か不真実かもそこで決まってしまうように見えるものでしょう。しかし、アブラハムはそれでもなお神を信じたのです。イサクが既に死んでしまったとしても、望みが完全に絶たれたとしても、それでもなお神は約束を守るし、神は真実であるとアブラハムは信じていたのです。旧約聖書にそのとおりに書かれているわけではありませんが、確かにこの手紙が語っているように、いわばアブラハムは、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」と言えるでしょう。実際、神がストップをかけたわけですが、それはアブラハムにとっては死人をよみがえらせて返してもらうに等しい出来事だったからです。
その後に、イサクの信仰、ヤコブの信仰、ヨセフの信仰について書かれています。自分自身は約束されたものを得ていないのですが、それでもなお子どもたちを祝福するということは、まだ見ていない事実、未来に属する事実を信じているということです。約束してくださった方は真実であると信じ、見ていない事実を信仰によって見ているがごとくに生きたのです。
続いて取り上げられているのはモーセにまつわる話です。最初にモーセの両親、次いでモーセ自身、そしてモーセに率いられたイスラエルの民の信仰について書かれています。
モーセの両親が生まれた男の子を三ヶ月間隠していたのは、「信仰によって」であったと書かれています。目に見えるところにおいては、絶対的な権力を持ち、命じる権威を持っているのは明らかにファラオなのです。しかし、モーセの両親は目に見えるものだけを見て生きなかったのです。目に見えない御方、まことの支配者を見て、その御方に信頼したのです。
この両親に育てられたモーセは、成人した時、王女の子と呼ばれるよりも、神の民と共に虐待される方を選びました。ここにはなんと「キリストのゆえに受けるあざけり」と記されています。モーセはもちろん知らなかったかも知れません。しかし、彼が信仰によって受けたあざけりは、後にキリストのゆえに迫害を耐え忍んだキリスト者の受けたあざけりと同質のものだったのです。それは目に見えない御方、約束してくださった神に信頼し、まだ見ぬ約束された報いに目を注ぐゆえに、あえて受け取っていった苦難だったからです。モーセは「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」のです。それが信仰なのです。
エジプト脱出の時、神は過ぎ越しの小羊を屠り、その血を柱と鴨居に塗ることを命じました。滅ぼす者による裁きを免れたか否かは、彼らが正しい人間であったか否かによるのではありませんでした。神の言葉を信じて、信頼して、血を塗ったか否かによったのです。
エジプトを脱出したあの葦の海を前にしてエジプト軍に追いつかれた時、モーセは人々にこう言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
目に見えるのは迫り来るエジプト軍だけなのです。神の軍勢は見えないのです。そのような危機において静かにしていることは困難です。しかし、彼らは信じたのです。そして神によって海が分かれました。彼らは海の中に出来た道を通って向こう側に行けると信じたのです。実際、その道を踏み出すということは、信仰なくしてはできないでしょう。事実同じ道を通りながらエジプト人は滅びたのですから。あの葦の海の奇跡、それはただ神によって海が分かれたということではなくて、「信仰によって」彼らが海を渡る出来事でもあったのだ、と聖書は伝えているのです。
続いてヨシュアの時代の出来事が二つ記されています。一つはエリコ攻略の話(ヨシュア6章)、もう一つは娼婦ラハブが斥候をかくまった話(ヨシュア2章)です。
エリコを攻めるに当たり、神が命じられたのは次のことでした。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい」(同6:3‐4)。
人間の目に映っているのは堅固な城壁に囲まれた町です。その周りを巡ることに何の意味も見出せなかったに違いありません。しかし、彼らは目に見えるものよりも、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」という約束を与えてくださった主を信じたのです。彼らは信仰によって町の周りを回ったのです。そして、まだ見ていなかった報いを信仰によって得たのでした。城壁は崩れ落ちたのです。
ラハブが斥候をかくまった時、彼女はこう言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(同2:11)。目に見えるところにおいては、彼女は堅固な城壁に囲まれた難攻不落の町の中にいるのです。しかし、彼女は目に見えないまことの神に目を向け、「様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ」、彼らに救いを求めたのです。
彼女には一つのことが科せられました。窓に真っ赤なひもを結びつけること。そして、一族を家に集め、戸口から外へ出ないことでした。彼女は、まだ見ていない未来の出来事を信じ、まだ何も起こらない内から、真っ赤なひもを窓に結びつけました。彼女とその一族が助かったのは、正しかったからではありません。ただ信仰によったのです。
そして、この著者は「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」とこの著者は言います。まさにその通りでしょう。今日に至るまで、夥しい人々が信仰に生きてきたのです。彼らのある者たちは、生ける神の奇跡を経験し、助け出されたり、勝利を得たりしました。しかし、もう一方において、ある者たちは迫害の中で拷問にかけられたり、のこぎりで引かれたりして死んでいったのです。では彼らは奇跡を経験した人々よりもは不幸な人々なのか。そうではありません。彼らは「さらにまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」と書かれているのです。その直前には、「死んだ身内を生き返らせてもらいました」と書かれているのです。しかし、そのような奇跡を経験することよりも大きな喜び、大いなる神の御業、「さらにまさったよみがえり」に彼らは目を向けていたのです。それを思うならば、拷問にかけられることは何でもなかったというのです。
ここまで読みまして、本当に私たちは何を見ているのだろう、と思わせられます。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことでしょうか。キリスト者とされたということはどういうことか。それは「信仰によって」と繰り返されてきたその人々の列に、私たちもまた加えられているということなのです。そのことと改めて向き合う必要があろうかと思うのです。