ヘブライ人への手紙 8:1‐13
先週は、イエス様が「永遠に祭司」であるということについてお話ししました。イエス様は永遠に生きていて、変わることのない祭司職を持っていること。常に生きていて、私たちのために執り成しておられるので、イエス様を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになること。しかも聖であり、罪なき方であるゆえに、まず自分の罪のためにいけにえを献げる必要がないこと。これらが先週の箇所を通して私たちに与えられたメッセージでした。
さらにイエス様がメルキゼデクと同じような祭司であることについての話は続きますが、この著者は語ろうとしていることをここで短く要約しておくのが良いと思ったようです。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです」(8:1‐2)
ここにすべてが言い尽くされていると言えるでしょう。そして、このことが本当に分かったなら、これから先どんなに大きな困難が待ち受けていたとしても、必ずやそれを乗り越えることができると信じて語っているのです。これは私たちにおいても同じです。私たちが毎週こうしてヘブライ人への手紙を読んでいるのは、このことを悟ることを主が望んでおられるということです。
私たちには大祭司が与えられています。大祭司というのは、犠牲を献げるために任命されているのです。ですから、「この方も、何か献げる物を持っておらなければなりません」(3節)。しかし、この著者はこの話を後に持っていきます。9章後半において、このことが明らかにされるのです。
その前にこの大祭司がどこにおられるかに注目します。私たちの信仰告白においても言い表しているように、キリストは天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。つまりイエス様は天においてその務めを果たしておられるのだ、ということです。御子が地上に来られた時、地上には既に律法によって定められたレビの系統の祭司たちがおりました。ですから、復活と昇天がなければ、イエス様は祭司ではあり得ません。「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう」(4節)と語られているとおりです。
さて、ここには注目すべき対比があります。地上における祭司と天上における祭司です。そこで問題はどちらが本来的な祭司なのか、ということなのですが、既に明らかにされてきたように、それは天上における祭司なのです。では、地上の祭司がしてきたことは、いったい何であるのかということになります。そこで心に留めねばならないのは、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋」(2節)という言葉です。ここで語られているのは、天上の大祭司なるイエス様が仕えている天の聖所のことです。
「天の聖所」と言いますと、それに対応しているのはもちろん「地上の聖所」です。地上の聖所と言えば、これを読んでいる読者にはすぐに一つのイメージが思い浮かびます。それはエルサレムの神殿です。特に神殿の一番奥にありまして垂れ幕によって仕切られています至聖所と呼ばれる部分です。イエス様が十字架にかかられた時、上から下まで真っ二つに裂けたと言われているのは、この垂れ幕のことです。この一番奥に至聖所があるという神殿の形はモーセの時代にまで遡ります。もちろん、その時には建造物としての神殿ではなく幕屋です。しかし、構造は同じなのです。
さてこのように幕屋があり神殿がある。当然のことながら、読者にとって身近なのは、この目に見える聖所の方です。ですから「天の聖所」と聞きますと、まず「地上の聖所」があって、それを比喩に用いて天のことを表現していると思うものです。つまり「天にも、地上の聖所の《ようなもの》」があるのだな」というようにです。実際、他のことについても、常々そのような考え方をしているのだと思います。例えば、「天の父」と言いますと、神様を「たとえて言うならば私たちのお父さんのような方」として理解しているのだと考える。「父の家」と言いますと、まず地上の家があって、それを比喩的に用いて天の御国を表現するならば、「父の家」になるのだ、というように考えているのではないでしょうか。ですから、この場合も「天の聖所」というのは比喩的表現だと考えてしまいやすいのです。
しかし、本当はそうではないのだと今日の箇所は教えているのです。まず地上の聖所があるのではなくて、まず天の聖所があるのだ、と。その根拠となっているのは、出エジプト記25:40です。ご存じのように、この部分は神様がモーセに幕屋建設の指示を与えているところです。モーセはシナイ山で律法を受けます。その時に幕屋建設の指示をも受けるのです。その時、神様はモーセにこう言われたのです。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」(出25:40)。ここで「作り方」と訳されていますが、そのギリシア語訳がヘブライ8:5に引用されていますように、それは「型」あるいは「原型」と訳せる言葉なのです。つまりモーセが最初の聖所を作る前に、その原型があったということです。それを見せていただいて、「この型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。さて、その原型はどこにあるのでしょう。神様が示したのですから、それは神のもとに、天にあるのです。
地上の聖所がまずあって、天の聖所は比喩的表現なのではないのです。まず天の聖所があるのです。そして、地上の聖所は「天にあるものの写しであり影であるもの」(5節)だと言うのです。その写しに仕えているのが地上のレビ系統の祭司だと言うのです。こうして千年以上も続いてきた地上の聖所とそこにおける祭司が存在することの意味が明らかにされました。それは天にあるものを不完全ながらも地上に示すものだったのです。
そのように長い間、天にあるものの写しに仕えてきた祭司たちによって示されてきた、まことの祭司がついに現れたのです。それがわたしたちの大祭司、イエス・キリストです。その方の務めは写しに仕える務めよりもはるかに優っていることを、この著者はさらに新約と旧約ということからさらに説明します。
ここで引用されているのはエレミヤ書31章31節以下の部分です。モーセが与えられた幕屋建設の指示は律法として与えられました。律法は神と民との契約に基づいて与えられました。その契約については「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約」(9節。引用もとはエレミヤ31:32)と呼ばれています。この契約に基づいて律法が与えられ、その中に幕屋建設と祭司制度もあったのです。しかし、もしそれが完全であるならば「第二の契約」すなわち「新しい契約」が与えられる必要はなかったと言えます。しかし、実際には、神はエレミヤを通して「新しい契約」について語っておられるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と。
「新しい契約」と表現されたということは、それまでの契約は古びてしまったということを意味します。つまり神様はこの地上の目に見える神殿も、そこにおける祭司制度も古びてしまったもの、消え去るべきものと見られたということです。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」(13節)。
そして、その新しい契約は実現したのです。イエス様が最後の晩餐において「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたようにです。そして、事実イエス・キリストの血が流されることになったのです。もはや古き律法の時代、古き祭司制度の時代は過ぎ去りました。その写しが示していたように、本来の大祭司が本来の祭儀を行うために天の聖所に入られたのです。私たちはその永遠の執り成しのもとにあるのです。