出エジプト記 13:1-22
前回は過越祭の規定について書かれている箇所をお読みしました。13章に入りまして、さらに除酵祭の規定について読んでいくことになります。13章の冒頭には「初子の奉献」について書かれていますが、これが11節以下と関係していますので、後に扱うことにします。まず3節以下の除酵祭の規定に目を向けましょう。
この規定も、約束の地に入って後にも行われることを前提として語られています。「主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない」(5節)。この月というのは4節に語られている「アビブの月」のことで、今の3~4月頃に当たります。その月に「七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする」ということが命じられているのです。
これは明らかに共同体を形作り、さらには共同体が存続していくためのものだということは8節以下からよく分かります。「あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない」(8-10節)。
「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」という言葉が3節と9節に置かれています。ちょうど除酵祭の規定は、この二つによって囲まれるようにして書かれているのです。つまり除酵祭の規定は、このことを伝えるために定められているということです。
なぜ「酵母を入れないパン」なのかは、前の章に書かれていたとおり、「発酵させる時間がないから」というのが脱出時の直接的な理由でした。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」(12:39)。
前回お話ししたように、「ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかった」という言葉は、すなわちこれが人間による綿密な計画によって実現したのではないことを示しています。もし人間が「脱出計画」を立てるならば、そして、脱出できることを前提にしているならば、道中の食事のことまで考えて相当に周到な準備をするに違いないからです。つまり、これは人間がまさに信じられないようなことを、想定できないようなことを、神の圧倒的な力によって、一方的に与えられたことを示しているのです。
これを13章では「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」と表現しているのです。そして、この認識がカナンの地に入ってから後においては、極めて重要になるのです。なぜなら彼らは土地を得て、農業を営むことになるからです。そうすると「豊作」に関心が向くことになります。言い換えるならば、「繁栄」に関心が向くことになるのです。そうしますと宗教もまた、繁栄を獲得するための手段へと変化していく可能性が出てきます。
実際、彼らが入って行くことになるカナンの地には、既にそのような土着のバアル礼拝が存在しているのです。それは彼らが共同体として保持すべき信仰、すなわち「本来ならば滅びていたはずなのに、一方的な神の御業によって救われたのだ。その神の恵みに応えて生きていくのだ」という信仰の在り方とはまったく異なるのです。だからこそ、そのように変質しないためにも、「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」を思い起こすことが必要になるのです。
4.初子の奉献
それは、この章の冒頭に書かれていた「初子の奉献」の命令とも関係しています。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(1-2節)。
「聖別して神にささげる」とは、具体的には犠牲として屠って献げることを意味します。 そこで重要なのは「人であれ家畜であれ」と書かれていることです。家畜の中には、牛や羊だけでなく、ろばなども含まれているからです。家畜の中で、羊や牛ならば、初子をそのまま屠って献げることになります。しかし、例えば「ろば」などの場合はどうでしょうか。ろばは古代から祭儀には用いられていませんでした。そのような動物の場合は、羊をそのろばの代わりにするのです。「ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない」(13節)とはそういうことです。
しかし、もっと重要なのは「人であれ」と言われていることです。人間の場合はどうなるのでしょう。次のように書かれています。「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない」(13節)。そのように、人間の初子の場合も、基本的にろばと同じです。「贖わねばならない」とありますが、具体的にどのような動物を代わりにするかは書かれていません。しかし、ろばと並べて書かれているので、同じく「小羊をもって」と考えてよいでしょう。
ここでろばと同じように「贖わねばならない」と書かれているということは、人間の初子も、あのエジプトの裁きの時と同じように、本来ならば殺されなくてはならないということを意味します。しかし、本来ならば殺されなくてはならなかったはずの初子が、特別に神のものとされ、小羊によって贖われて、生きることを赦されるのです。それが「初子の奉献」の儀式が意味するところなのです。
そして、それを子供に見せることに大きな意味があります。「これにはどういう意味があるのですか」と問わせるのです。特に重要なのは、「初子」である子供に見せることでしょう。本来なら死んでいるはずの「初子」である子供に見せることです。そこで、あの時主は「エジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた」のだと伝えるのです。そして、本来同じように死ぬはずだったイスラエル人の初子が裁きを過ぎ越されて死ななかったことを伝えるのです。
ただ一方的な恵みによって救われたことは、記憶され、語り継がれなくてはなりません。「主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである」が最後にまた繰り返されているのはそういうことです。カナンの地に入ってからこそ、これが決定的に重要な意味を持つことになるのでしょう。繁栄のために神を利用するのではなく、神の恵みに応えて生きるようになるために、そのことがどうしても必要になるのです。
さて、エジプトを出発したイスラエルの民が、約束の地、カナンの地に至る最も近道は、地中海に沿ったペリシテ街道を行くルートでありました。しかし、神は彼らをそこへは導かれず、「葦の海へと通じる荒れ野の道に迂回させられた」(18節)と書かれています。エジプトを出た民について最初に書かれているのは、彼らが遠回りをしたということです。
なぜ遠回りをしたのか。そこには神の配慮があったことが教えられています。地中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へと彼らを導かれたのです。私たちは後に、神の判断が間違ってはいなかったことを知らされます。民には確かにその弱さがありました。戦いに遭遇する以前に、荒れ野の旅路の厳しさの中で、既に彼らは不平を言い始めるのです。
神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。もちろん、その神の意図は、人の目には隠されているのであって、それゆえに、それは人間にとってしばしば不愉快なことでしかないのでしょう。しかし、神の配慮は後になって明らかになってくるものなのです。
さらに、私たちはあえて「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれていることをも見落としてはなりません。これは続く14章に直接関係するからです。葦の海で何が起こりますか。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥ることになるのです。しかし、神の奇跡により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。これが後々まで語り継がれることになる「葦の海での奇跡」です。イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによることを経験するのです。
このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれます。彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのであり、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるものであったのです。彼らが進むべき道は、近道ではなく、「葦の海に通じる荒れ野の道」でなくてはならなかったのです。
私たちはさらに「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と書かれていることにも注目しなくてはなりません。これはヨセフの言葉に基づくものです。「『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください』」(創世記50:24‐25)。
つまり、単にヨセフとの約束を守るという意味だけではないのです。「神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という神の約束を携えて上ったということなのです。遠回りであっても、ただ神の約束に信頼して従っていく。それが、たとえ遠回りであっても、火の柱、雲の柱に従っていくということだったのです。