2024年6月5日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 19:1~9

 出エジプト記 19:1-9


 19章に入りますと、「シナイの荒れ野に到着した」と書かれています。出エジプト記においてこれ以降のことはすべて「シナイの荒れ野」の出来事として書かれています。いや、それだけでなく、レビ記全体、民数記の初めの部分までが、シナイの荒れ野を背景として書かれているのです。「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった」(民10:11)。ここまでのすべては、シナイの荒れ野での出来事です。この約11ヶ月のこととして描かれているのです。

 このように、この11ヶ月のことに大きな紙面が割かれているのは、とりもなおさず、これが重要だからです。その11ヶ月の間に起こった決定的に重要な出来事は、「神との契約が結ばれた」ということです。今日の聖書箇所において「わたしの契約を守るならば」(5節)と語られている、この「契約」のことです。契約締結の出来事そのものは出エジプト記24章に記されています。

 これは聖書全体にとっても中心的な出来事と言えます。私たちが持っている聖書の「新約」と「旧約」とは、新しい契約、古い契約という意味ですから。そこで語られている「契約」とは、「神が特別な関係を結んでくださる」ということに他なりません。

 この世界全体は神によって創造されました。ゆえに、既に「創造者」と「被造物」という関係は初めからあると言えます。それは人間に限らず、全ての被造物に共通して言えることです。しかし、「契約」というのは、そのような「創造」における関係ではありません。神が特別な目的のために「神の民」としてくださるということです。そのような特別な関係を結んでくださることです。

 「旧約」すなわち「古い契約」において、イスラエルは神の特別な関係を与えられて「神の民」となりました。これに対して、私たちには「新約」すなわち「新しい契約」が与えられ、「新しい契約」によって、新しい神の民、教会とされているのです。それゆえに、私たちがクリスチャンとされているとはどういうことか。教会とされているとはどういうことかを本当の意味で知るためには、この古い契約に遡って、「契約」とは何であるかを学ばなくてはならないのです。その意味で、これからの部分は私たちにとっても極めて重要な意味を持っているのです。

 「契約」についてまず心に留めなくてはならないのは、それが一方的な神の恵みによって与えられたということです。そこで今日、まず注目したいのは3節から6節の部分です。

 イスラエルはシナイの荒れ野に天幕を張り、そこで山に向かって宿営しました。その山とはシナイ山です。しかし、そこでは「モーセが神のもとに登って行くと」と書かれています。実際には山に登って行ったのです。どうして山に登ることが「神のもとに登って行く」ことになるのでしょうか。

 実は、シナイ山は聖書の他の箇所では「ホレブの山」と呼ばれております。特に後の「申命記」において、その呼び方が繰り返し出てきます。実は、「ホレブの山」が出てくるのは、ここが始めてではありません。3章に出て来ているのです。それゆえに2節ではただ「山(The Mountain)」と書かれているのです。

 思い起こしてください。あの日モーセは「神の山ホレブ」(3:1)に来たのです。そして、そこでモーセは火に燃えているのに燃え尽きない柴を見たのです。そして、その柴の間から声がした。モーセは主に出会ったのでした。そこで主は言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(3:5)。つまり、あの時モーセは「神の山ホレブ」で主と出会い、そこからエジプトへと派遣され、イスラエルの人々をエジプトから導き出し、再び「神の山ホレブ」に戻ってきたという、そのような話の流れになっているのです。それゆえに、その山に登るということは、神のもとに登って行くことに他ならないのです。

 それゆえにまた、そこで主は、「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」と語っているのです。つまり、モーセを派遣してエジプトを脱出させることは、まさにイスラエルの民を「鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来る」ということだったのです。

 「鷲の翼に乗せて」で表現されているのは、一言で言えば「神の一方的な恵み」です。彼らは自分の力でエジプトを脱出したのではありません。それはあたかも鷲の翼に乗せられて飛び立つような出来事だったのです。だから「わたしがエジプト人にしたこと」と書かれているのです。それは既に見てきたとおりです。実際、エジプトから脱出するために本質的なことは、イスラエルの民は何一つしていないのです。彼らが蛙を出したわけでも、雹を降らせたわけでもない。いやモーセでさえ、ある意味では重要なことは何一つしていないとも言えます。まさに「鷲の翼に乗せて」です。

 そのように「鷲の翼に乗せて連れて来られて」、契約を与えられることになるのです。すなわち、契約の前提は神の一方的な恵みなのです。イスラエルの民が神と特別な関係に入れられるのは、ただ神の一方的な恵みによるのです。

 5節には「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という言葉が出て来ます。しかし、間違ってはなりません。彼らが声に聞き従ったから、そのような従順な民だから、契約を与えられたのではないのです。彼らが聞き従うも何も、まだエジプトの奴隷であったとき、しかも、偶像礼拝のただ中にあってエジプト人と同じようなことをしていたときに、一方的な神の恵みによって解放されたのです。聞き従うから契約を与えられたのではなく、恵みによって契約を与えられたからこそ、そこで初めて、それを「守る」という課題について語られ得るのです。

 それは「新しい契約」においてはもっとはっきりしています。神が独り子をお送りくださって、罪と死から解放するためにイエス・キリストを十字架にかけ、そして復活させられた。そして、聖霊が降された。そうやって教会が誕生した。そこで人間は何もしていません。ただ神がなさったことです。それを根拠に、イエス様の流された血を根拠に、新しい契約が与えられたのです。神との特別な関係が与えられました。だからイエス様は最後の晩餐において、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたのです。私たちの努力や従順によって立てられるのではない。あくまでもイエス様の血によって立てられる契約なのです。

 そのように契約とは神の一方的な恵みによって与えられるものなのです。そして、第2に心に留めるべきことは、契約には目的があるということです。

 出エジプトの出来事は、単に苦しんでいるイスラエルを解放するためではありませんでした。救いは救い自体が目的ではないのです。彼らは、シナイ山に連れて来られるために救われたのです。なぜ神のもとに連れて来られたのか。神はなぜ契約を結ぼうとされたのか。神にはしようとしていることがあるからです。神には目的があるからです。

 その目的とは何か。「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と書かれています。神は彼らを御自分の宝にしようとしていたのです。契約とはそういうことです。それは神の宝になることに他なりません。

 神の宝となるとはどういうことか。「自分たちは神にとって特別な存在なのだ。他の民とは異なるのだ」と言って誇るためでしょうか。そうではありません。6節にはこう書かれています。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と。ここで「祭司の王国」という言葉が重要です。祭司とは神と人との間に立って執り成し、神と人とが交わりを持つことができるようにする存在です。イスラエルとは、まさに他の民が神と結びつくことができるように、交わりが持てるようになるために、その役割を持つのです。

 そのような「祭司の王国」が必要なのは、実際には、この世界が神に背いているからに他なりません。「世界はすべてわたしのものである」と主は言われます。しかし、現実には世界はそう動いていないのです。これは神との交わりを失っている世界です。イスラエルももともとはそのような世界に属するものでした。しかし、神は彼らをエジプトから救い出し、まず彼らを特別な関係に入れました。神との交わりに入れました。それはやがては神のものである世界全体が神との交わりに入れられるためなのです。そのために仕えるのが、先に選ばれ契約を与えられたイスラエルなのです。彼らが特別な存在として世にあってこそ、この世に仕えることができるのです。

 彼らは一方的な恵みによって契約を与えられるのです。神との特別な関係を与えられるのです。神の民とされるのです。ならば、そこで大事なことは、神の民として生活することです。神との特別な関係を与えられたものとして生きることです。それはすなわち、他の民とは違ったように生活することです。そうあってこそ、祭司の王国としての務めが果たせるのです。そのように神の民として生活することこそ、「契約を守る」ということなのです。であるから、どのように生活したら良いかが語られるのです。その中心は何か。この後にすぐ出てくるのは、幕屋の作り方です。つまり礼拝なのです。神の民として生活することの一番の特徴は何かと言えば、神を礼拝していることなのです。

 新しい契約の民の目的も同じです。この世界に仕えるために存在し、この世界が神のものとなるために仕えるのです。それが新しい契約の民、教会です。そのために必要なことは、まずは礼拝する民となることなのです。だから教会が第一に大事にしているのは礼拝なのです。

 契約には目的があります。神は御自分の世界を御自分のものとするために、まず先に御自分の民を選ばれ、契約を与えられました。それがイスラエルの民であり、それが教会なのですキリスト者がキリスト者として生活してこそ、この世に仕えることができるのであって、この世と同じことをすることによって、この世に仕えるのではありません。塩が塩味を失ったらいったい何の役に立つか、とイエス様も言われました。もはや何の役にも立たず投げ捨てられて踏みつけられるだけである、と。信仰者は信仰者としてのアイデンティティ、塩味を失ってはならないのです。


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