出エジプト記 40:16-38
前回お話ししましたように、35章から40章までは一つのまとまりになっています。それは25章から31節にかけて詳細に語られている幕屋建設についての神様からの指示にちょうど対応していまして、35章以降には、神がモーセに命じられたことが、具体的に実行に移されたことが記されているのです。今日はその最後の章をお読みしました。
35章から40章では、主が指示されたことが実行に移されたことが記されていると申しましたが、実際に幕屋そのものを建設するのは本日お読みした40章16節以下において初めて書かれていることです。それまでの大部分は、指示されたとおりに垂れ幕や掟の箱を作るなど、最終的に幕屋を作るための準備であると言ってよいでしょう。
その準備が完了したことを伝えているのは、前の章の最後の部分、39章32節以下です。まず次のように書かれています。「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った」(39:32)。そして、イスラエルの民はこれまでの作業をもって準備してきたものをモーセのもとに運んできます。そして、42節でもう一度、次のように語られています。「スラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った」。モーセは、主が命じた通りに行われているかどうかをチェックします。そして、実際に命じられたとおりに行われていたので、モーセは民を祝福します。そして、40章に入るのです。今日お読みしたのは、16節以下ですが、この章の前半部分も見ておきましょう。
準備が整った時に、主はモーセに言われました。「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」。本当は、すべて用意はできているのですから、すぐにでも組み立てることができるのです。しかし、主は第一の月の一日まで待つことを求められたのです。
第一の月と言えば、やはり思い出されるのはエジプト脱出の出来事です。主はあの時、モーセにこう言われたのです。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(12:2)。つまり、幕屋建設はあの時からちょうど一年後ということになるのです。これまで読んできましたエジプト脱出後の物語には、実に様々な出来事が記されていたように思いますが、実際には、エジプト脱出からまだ一年しか経っていないのです。
いずれにせよ、神様の意図においては、幕屋建設がエジプト脱出の出来事と関係づけられていることは明らかです。ちょうど一年前に起こったことは、いったい何を意味するのか。彼らは幕屋建設に当たって、その大事なことを思い起こさなくてはならなかったのです。それはすなわち、第一に、出エジプトという神の恵みがあってこそ、今、こうして幕屋を建てて主を礼拝する民が地上に存在するのだということです。この民が存在すること自体が神の恵みを指し示しているのです。そして第二に、出エジプトの目的は、まさにここにあるのだ、ということです。彼らはただ奴隷状態から解放されるためにエジプトから導き出されたのではないのです。そうではなくて、この幕屋を建てるために、導き出されたのです。すなわち、主を礼拝する民を作るために、主は彼らを救い、エジプトから導き出してくださったのです。
ちょうど一年後の第一の月に、正月を定めたあの時を思い起こしつつ、主の恵みと主の目的を思い起こしつつ、彼らは幕屋を建設するよう命じられたのです。
そして、時が来て、ついに組立に入ります。2節から15節までに、幕屋の組み立てと祭司の任職に関する「神の命令」が記されており、今日お読みした16節から33節までに、その命令を実行したことが記されております。実行に関しては「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った」に始まり、「モーセはこうして、その仕事を終えた」で締めくくられます。
まず幕屋の構造ついて、見ておきたいと思います。言葉だけでは分かりにくいので、プリントに幕屋の構造の図を載せておきました。
まず、幕屋の外壁に当たる部分と天幕部分を組み立てます。その一方で、掟が記されている2枚の石の板を掟の箱に入れ、贖いの座と呼ばれる蓋をします。掟の箱は聖なるものなので、直接手で触れることはできません。棒を差し入れて運びます。そのようにして、準備された掟の箱を幕屋の奥に設置します。そして、その前に垂れ幕をかけます。垂れ幕によって、その向こう側とこちら側の二つの空間に分けられます。垂れ幕より奥は「至聖所」と呼ばれ、垂れ幕の手前は「聖所」と呼ばれます。
聖所には、机を入れてその上に付属品を並べます。燭台も運び込み、火を灯します。垂れ幕の前に、香のための祭壇を置き、幕屋の入口に幕をかけて完了します。
臨在の幕屋のセッティングが完了しましたら、入口の前に、ささげものを焼く祭壇を据え付けます。祭壇と幕屋のあいだには洗盤を置いて水を入れます。そして、幕屋の周りを庭として周囲に幕をめぐらして囲い、庭の入り口にも幕をかけます。
このように、「至聖所」と呼ばれる最も聖なるところから始まって、外に向かって、すなわち神から人に向かって、組み立て、配置して、整えていくようにと主は命じられたのです。そして、そのように主が命じられたとおりに、設置されていったのでした。
そして、その後に、幕屋とその中にあるもの、また祭司が聖別されることになります。聖別は油を注ぐことによって行われます。聖別については、実際の行為の描写は端折られています。しかし、当然のことながら、命じられたとおりに行われたのでしょう。聖別に関して、主がどのようなことをするように命じられたかは、今日の箇所の少し前、9節から15節にかけて記されています。
聖別の油をすべての祭具に注ぎ、さらにはアロンをはじめ、祭司たちにも注ぎます。それだけ油を注いだら、ベタベタになって困るだろうにとも思いますが、大切なのはその意味するところです。油を注いで聖別し、それらを聖なるものとするということは、それらを完全に神のものとすることです。神に属するものとされたなら、それらは他のものと完全に区別されなくてはなりません。それらは神に属するものとしての用途以外には用いることができません。すなわち、それらは礼拝のために聖別されたのですから、それは純粋に礼拝を礼拝とするためにしか用いることはできません。これらはすべて神のために存在していることになるのです。それはすなわち、それらを用いて行われる礼拝という行為そのものが、純粋に神のために行われる営みなのだということをも示しているのです。
そこで改めて私たちが行っている礼拝について考えさせられます。私たちの礼拝堂は建てられた後に「献堂」されたものです。聖餐卓も、聖壇も、すべて「聖なるもの」であるならば、それは神に属するものです。それら「神のもの」を用いて行われる礼拝は、本当に神のために行われているのでしょうか。
さて、幕屋の設置に関する一連の描写において、すぐに目につくのは、「主がモーセに命じられたとおりであった」という言葉の繰り返しです。これらの描写が、創世記1章の天地創造の物語に類似していることはすぐに分かります。ちなみに創世記1章の「天地創造の物語」は、旧約聖書の中でも「祭司文書」と呼ばれる部分の一つであって、バビロンに捕囚となった祭司たちが伝えてきたものとされています。それはまた祭司たちによって礼拝で用いられてきた文書でもあるのです。なので同じフレーズの繰り返しが多用されているのです。
天地創造の物語では、神が命じ、「そのようになった」という言葉が繰り返されています。その繰り返しによって、天地が創造されていくのです。すなわち、神の言葉が具体的な形をとっていくのです。 同じように、幕屋の設置においても、「主がモーセに命じられたとおりであった」というフレーズが繰り返されています。その繰り返しによって、神の言葉が幕屋の設置という具体的な形をとっていくのです。
祭司たちが伝えてきたこれらの二つのこと、すなわち天地創造と幕屋の設置のこの類似は、いったい何を意味しているのでしょうか。幕屋というのは、この世界の写しなのであるということです。完成へと向かうこの世界の写しなのです。
例えばこんなことを考えてみてください。詩編には、「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」(詩編150:6)と書かれています。しかし、実際には「息あるもの」はこぞって主を賛美しているわけではありません。すべて息あるものの内でも、特に「人間」が主を賛美してはいないからです。神ならぬものにひれ伏し、神ならぬものに支配されている現実がこの地上にはあるのです。しかし、やがてこの被造物世界が完成し、天地万物、すべての人が主を礼拝する時が来るのです。
しかし、繰り返しますが、現在においては、実際にはすべての被造物が主を礼拝しているわけではないのです。しかし、その時が訪れることに先だって、天地の写しの中で、先に選ばれたイスラエルの民が礼拝を捧げているのです。そのような礼拝を捧げるために、幕屋を組み立て、設置しているのです。それは何を意味するのか。それは、神の世界が完成した姿、すべて息あるものがこぞって主を賛美している世界の姿の、いわば先取りなのです。現在行われている礼拝とはそのようなものなのです。
天地創造の時には、「神は言われた。そのようになった」とあります。しかし、現実のこの世界においては、主が語られたことは、自動的に「そのようになった」となるわけではありません。主の御言葉は、主の民の従順によって実現していくのです。それが、幕屋建設の示す大事な一つのことなのです。神の言葉は成る。そのために主は人を用いられる。イスラエルを用い、教会を用いられるのです。
さて、そのように立てられた臨在の幕屋に主の栄光が満ちたことが34節以下に記されています。これは直接レビ記1:1につながります。至聖所に人は入っていけません。しかし、主はそこから呼び掛けることはできます。そのように、神の言葉を与えられていること自体が恵みのしるしなのです。そして、主は約束通り、共に歩んでくださることを現されました。そして、民はその導きに従って旅を進めたのです。