2024年8月7日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 35:4~29

 出エジプト記 35:4-29

 今日は35章をお読みしました。35章から40章までは一つのまとまりとなっています。次回は最後の40章を読む予定ですが、この一つのまとまりは、25章から31章までと対応しています。

 25章から31章には「幕屋建設についての指示」が書かれていました。その冒頭において、主はモーセに次のように命じていました。「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
25:5 赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(25:1-9)。

 そして、35章から40章までは、その指示が実行されたことが書かれているのですが、今日お読みした4節以下には、先に見た主からモーセに与えられた指示が、一言一句違うことなく、そのまま出てくるのです。つまり、まずモーセが主の御言葉を忠実に実行したということです。そして、本日お読みした20節以下には、彼らが献納物として携えてきたもののリストが記されています。それは、若干順番は異なりますが、すべて主が命じられたリストに対応していることが分かります。つまり、モーセだけでなく、イスラエルの民が伝えられた主の指示どおり、彼らは忠実に実行したことが書かれているのです。

 そのように、今日の箇所は25章以下に記されていた幕屋建設の指示と厳密に対応するように書かれていますので、まずそこにおける大事なポイントを再確認しておきたいと思います。

 第一は、幕屋の建設と祭具の製造が、もともと《神の命令に従ってなされた》ということです。「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(25:9)。幕屋は礼拝の場所です。祭具は礼拝に用いるものです。これらの作り方を神様が細かく指示されるということは、とりもなおさず人間が礼拝をどのようにささげるかということは、神の大いなる関心事であるということです。

 既に繰り返し指摘していますように、神がイスラエルの民をエジプトから導き出されたのは、単に苦役から解放するためではありませんでした。神がイスラエルの民を神ならぬファラオの支配から解放したのは、いわばこの25章以下の命令を与えるためであったのです。すなわち、まことの王である主を礼拝する民とするためであった。彼らは主を礼拝する民となるために救われたのです。

 そのように、私たちが主を礼拝するのは、第一には、主が礼拝を求めておられるからであって、私たちの宗教的な欲求を満たすためではないのです。これは「礼拝」というものの性格からして当然のことだとも言うことができます。「礼拝」は神のためにあるはずだからです。

 そして、第二は、この礼拝の場所が、特に「幕屋」(ミシュカーン)と呼ばれていることです。「幕屋」と訳されている言葉は、「住む」(シャーカン)という言葉に由来します。「住まい」ということです。もちろん、神がその中に入るわけではありません。「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿(直訳は「家」)を建てうるか」(イザヤ66:1)とあるとおりです。しかし、それはまさに神が人と共にあることの「しるし」だったのです。

 そのような、神の住まいが実際に神の命令に従って建てられる。その最初の部分が、今日お読みした箇所なのです。

 しかし、さらに重要なことは、25章~31章の「幕屋建設の指示」と、35章~40章までの「実行」とが、続いて書かれていないということです。その間には何が書かれているかは、これまで見てきたとおりです。金の子牛の事件です。すなわち民の背きと神の赦しの話が間に入っているのです。

 つまり、実際に幕屋の建設が実現したのは、単に彼らが命令に忠実だったからではなくて、その前に神の赦しがあるからなのです。神は共に歩まないと言われたのです。つまり言い換えるならば、民と共には住まないと言われたのです。しかし、モーセの執り成しによって、神は共に歩んでくださると言ってくださった。神は共に住んでくださる。しかも、本当ならば神が一緒にいるならば罪人は滅びるしかないのに、それにもかかわらず人が神と共にいることができるのです。なぜなら、神は自らモーセに対して宣言されたように、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(34:6)と言われる神だからです。

 つまり幕屋が実際にできあがっていくわけですけれど、その幕屋が現実に存在すること自体が、まさに神の恵みをはっきりと表しているということなのです。

 それは「幕屋」が後の時代に「神殿」になっても変わりません。「神殿」が存在すること自体が既に神の恵みをはっきりと表しているのです。それが分からないと、新約聖書を理解することはできません。

 新約聖書において、まことの「幕屋」また「神殿」は何か。それはキリストなのです。ヨハネによる福音書の1章に書かれていますように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。この「宿られる」というのは「幕屋に住まわれる」という意味なのです。そして、キリストは神殿に集まる人々にこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(同2:19)。そして、聖書はこう説明するのです。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(同21節)。このキリストが地上に来られ、地上に存在したこと自体が、既に驚くべき恵みをこの上ないほどにはっきりと表しているのです。

 さらに、キリストが復活し、昇天した後に、その「神殿」を引き継ぐのは何か。それは教会なのです。教会はキリストの体であり、また聖霊の神殿であると語られています。だから、教会がこの地上に存在すること自体が、既にとてつもない恵みをはっきりと表しているのです。本来滅びるべきものと共に神がいてくださるのです。共にあゆんでくださるのです。その目に見えるしるしである幕屋が、教会して今日もこの地上に存在しているのです。それがどれほど尊いことか、私たちはもっと知る必要があるのでしょう。

 そのように、幕屋を造らせていただけること自体が、とてつもない恵みであることをイスラエルは理解したのでした。その彼らの思いは、「進んで心からささげる献納物」として表に現れることになったのです。

 今日の箇所に繰り返されているのは、「進んで心からささげる」という言葉です。モーセの命令において(5節)、そして、20節以下において、それが実行された時に、繰り返されています(21,22,29)。また、繰り返されているのは、誰から強いられたのでもない、「随意の献げ物」だったことです。これは何を意味するのでしょうか。恵みに対する応答だったということです。恵みが恵みとして分かっている人々の行為だったということです。幕屋の存在が恵みであるということが分かっている。だからそれを造るために、彼らは進んで心からささげたのです。これは恵みがわからないとできないことなのです。

 これはちょうど32章における彼らの行為とは対照的であると言えます。32章では、神の命令によってではなく、神々を造って欲しいという民の求めに従ってアロンが子牛の像を造ったのでした。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。そこに見るように、イスラエルの民を動かしていたのは、未来への「不安」であり「恐れ」だったのです。この求めに対して、アロンは言いました。「金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」と。民はどうしたでしょう。ためらうことなく、彼らは全員従って、耳輪をはずして持ってきたのです。どうしてか、恐れがあるからです。恐れが彼らを動かす。恐れる民を、恐れに基づいてアロンが支配しているのです。それはもはや随意の献げ物ではありません。これは宗教的カルトに見ることのできる一般的な形です。恐れる人に対して「献げ物をしなさい」と命じると、人々は従うのです。

 この32章の行為と、その前後に置かれている「幕屋建設」における民の行為と、いかに違うかは一目瞭然でしょう。幕屋建設は神の恵みが先にあるのです。それは神の赦しがあって初めて成り立つのです。それ自体が恵みなのです。その恵みに対する応答として幕屋は造られるのです。教会の建設(建物ではなく)もまた同じです。

 私たちが献げて教会を形作るのです。私たちが献げるのは私たち自身です。しかし、具体的にはそのしるしとして、例えば月定献金などが献げられることになるのでしょう。しかし、それは恵みに対する応答であるべきです。ですから、月次献金の袋は、洗礼を受けていない人は受け取ることができないのです。キリストがしてくださったことを知り、恵みを思って洗礼を受けて、その応答として、自らを献げる生活を形作っていくのです。そのようにして、幕屋であり神殿である教会は形作られていくのです。

以前の記事