2024年7月17日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 32:1~14

 出エジプト記 32:1-14

 前回は25章をお読みしました。その直前、24章18節には、「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた」と書かれていました。そして、山に登ったモーセに、主は幕屋とすべての祭具の作り方、さらにはそれらを作成する技術者の任命に至るまで、細かい指示を与えた次第が、25章以下に記されております。前回はその冒頭部分をお読みしたわけですが、全体としては31章にまで至る、かなりの長さに渡って書かれています。その最後は、次のように締めくくられています。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(31:18)。

 さて、今日お読みしたのは、その間に山のふもとにおいて起こった出来事です。「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て」と書かれていました。確かに、「四十日四十夜」というのはかなり長い期間です。もしかしたらもう帰って来ないかもしれない。人々がそう思ったとしても不思議ではありません。

 そこで人々はモーセの兄であるアロンのもとに集まって来てこう言いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(1節)。この願いに応えて、アロンは若い雄牛の鋳像を造りました。そして、人々はその前に築かれた祭壇に献げ物をささげ、祭りを行ったのです。これが今日の箇所の前半部分です。

 「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と彼らは言いました。彼らが「先立って進む神々」の製造を求めた理由は何でしょうか。「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」。これが彼らが示した理由でした。ここでモーセは「エジプトの国から我々を導き上った人」と表現されています。それは確かに間違いではありません。しかし、モーセは自分自身の力と働きによって、彼らをエジプトから解放したのでも、荒れ野の旅を導いたわけでもないのです。

 それはモーセの力ではなく、神の恵みの御業に他なりませんでした。イスラエルの民は、その神の恵みを見せていただいたはずなのです。そして、彼らを解放し彼らをシナイ山まで導き上ったのが神の恵みによるならば、そこから約束の地へと導かれるのも同じ神の恵みによるのです。そのような神と民との関係は、本来、モーセがいるから成り立つのではありません。モーセがたとえどうなろうと、彼らと神との関係は変わらないはずなのです。

 しかし、イスラエルの人々には、結局、モーセしか見えていませんでした。彼らがモーセという人間にしか目を向けていなかったという事実が、いみじくもここで明らかになったと言うことができます。それは、モーセの姿が目の前から失われることによって、明らかになったのです。モーセは帰って来ませんでした。もしかしたら、二度と帰って来ないかもしれません。彼らは動揺しました。そして、モーセが失われることによって、主に信頼して生きる生活も、神の民としての秩序も崩壊してしまったのです。

 これがいかに私たちにおいても身近な問題であるかは、私たち自身の教会生活を考えれば分かります。もし牧師であれ、尊敬できる信仰者であれ、キリスト教学校の先生であれ、そこに人間しか見えていなければ、同じことが私たちにも起こります。教会の中に「人間の集まり」しか見えていなければ、同じことが私たちにも起こります。人間との関係が揺らぐと、信仰生活そのものが揺らいでしまう。指導者との関係が揺らぐと、共同体の秩序も、共同体における生活も、揺らいでしまうのです。

 結局、目に見える人間と目に見える出来事にしか目を向けない生活は、目に見えるものによって揺さぶられることになるのです。私たちは、目に見える人間やこの世界の出来事を通して働かれる神の御業、神の恵みの御業にこそ目を向けなくてはならないのです。神様が恵みをもってなされたこと、神様が今なさっていること、そして神様が成し遂げようとしておられることにこそ、思いを向けなくてはならないのです。本来、信仰生活とは神の恵みの御業に目を向けてこそ初めて成り立つのです。神への信頼と従順とは、神の恵みへの応答だからです。ただ人間との関係によって成り立つ従順であるならば、その関係が失われた時に、その従順も失われます。それはある意味では至極当然のことなのです。

 モーセを見失ったイスラエルの民は「先立って進む神々」を求めました。不思議だと思いませんか。モーセという指導者を失って、他の別の指導者を求めた、というのならまだ分かります。神の言葉に従って生きるために、モーセに代わる他の人を求めたというのなら話はまだ分かります。しかし、彼らは「先立って進む神々」を求めたのです。

 「先立って進む」と言いましても、「造ってください」と言うのですから、それは所詮人間が造るものでしかないのです。人間が造ったものが、先立って進むわけないじゃないですか。実際、アロンが造ったのは子牛の像なのです。子牛の像は先立って進みません。そんなことは彼らも分かっているのです。造ったならば、結局自分たちが運ぶのです。それは自分たちが望むところに運んでいけるものなのです。

 そのような像によって、人は従順を要求されることはありません。モーセという指導者がいたからこそ成り立っていた従順な生活。それが失われた時、彼らはそこで、従順を要求されない神、自分たちにとって都合の良い神を求めたということです。

 それは彼らの行為にも現れています。彼らは子牛の像の前で「主の祭り」を行いました。そこで彼らは犠牲をささげます。そして「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」と書かれております。「戯れた」という言葉が具体的にどのような行為を指すかは不明ですが、それが何であれ、神の恵みへの応答ではなく、神への感謝から生まれた行為ではないことは明らかです。恵みの応答ではない祭りや礼拝は、結局は「戯れ」にしかならなかったのです。このように、モーセが失われた時、信頼と従順の生活も失われたのでした。神の恵みに目を向けていなかったからです。

 さて、山の麓から山の上へと目を移しましょう。今日の朗読箇所の後半部分である7節以下には、山の上における主とモーセのやりとりが記されております。主はモーセに言われました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」(7‐8節)。

 ここには主とイスラエルの民との断絶が言い表されています。もはや主はイスラエルの民を「わたしの民」とは呼びません。7節には、直訳すると、「あなたがエジプトの国から導き上った《あなたの民》」と書かれているのです。

 神はそのような民に対する裁きを宣告されます。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」(9‐10節)。

 これに対してモーセは主をなだめて、民のために執り成しました。彼はあくまでもイスラエルが神の民であると訴えます。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」(11節)。そして、「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(12節)と願い求めたのでした。この執り成しと説得のゆえに、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節)。これが後半部分に書かれていることです。

 よくよく考えると、そこには実に奇妙なことが書かれていると思いませんか。私が奇妙だと言いますのは、神様がモーセの説得に屈して思い直したことではありません。それよりも奇妙なことが書かれているのです。主がモーセに対して「直ちに下山せよ」と命じていることです。

 神様は彼らを「滅ぼし尽くす」と言っているのです。そして、モーセだけを残し、彼から新しい民を造ると言っているのです。しかし、もしそのつもりであるなら、どうして「直ちに下山せよ」と命じる必要があるでしょうか。滅ぼされる民のところにモーセを戻しても意味がないでしょう。さらに言うならば、そもそも、どうして民を滅ぼそうとしていることをモーセに告げる必要があるでしょう。

 主はわざわざ御自分の怒りを露わにされ、イスラエルに対する裁きを宣告されるのです。まるで、モーセが執り成すことを期待しているかのようです。モーセがまだ引き留めてもいないのに、「今は、わたしを引き止めるな」と言われる。おかしいではありませんか。まるでモーセが引き留めることを期待しているかのようです。

 そのように、ここに書かれていることは実に奇妙なことなのですが、この箇所について思い巡らしていますと、聖書の他の様々な箇所が思い浮かんでまいります。ここだけじゃない。同じことを、主はイザヤになさいました。エレミヤになさいました。エゼキエルになさいました。アモス、ホセア、ミカ、などなど、要するに預言者と呼ばれる人々に対して、主は同じことをなさったのです。民の罪を明らかにし、民に対する裁きを明らかにし、滅ぼすと宣言した上で、なぜか神は預言者を人々に遣わされるのです。実に、ここに見る主の姿は、聖書全体を貫いているのです。

 神は背いた民を裁いて滅ぼすことを願ってはおられないのです。主が願っておられたのは、人々が主に立ち帰って生きることなのです。背く人々のもとにモーセを遣わし、背く人々のもとに預言者を遣わされたということは、神が彼らを決して見捨ててはおられないことを意味しているのです。神のもとには赦しがあり、救いがあるということなのです。

 そのような神であるからこそ、最終的にはイエス・キリストを遣わされたのです。イエス様は言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:27‐28)。今もなおそのように私たちに語られているのです。神は私たちを決して見捨ててはおられません。ここに聖餐卓が変わらず置かれていること、今もなお教会において主の御言葉が語られ聖餐が行われていることは、そのしるしなのです。私たちはそのしるしが指し示している神の恵みに立ち帰り、その恵みに目を向けて歩み続けるのです。

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