2024年6月12日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 19:10~25

 出エジプト記19:10~25

 先週から19章に入りました。ここから舞台はシナイの荒れ野となります。「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」(1節)。彼らがシナイの荒れ野を出発するのは、民数記10章です。「「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった」(民10:11)。ここまでの間が、期間にすると約11か月です。この期間の話に聖書は大きな紙面を割いていることが分かります。それは重要だからに他なりません。その期間の中心的な出来事は、「主なる神との契約が結ばれた」ということです。契約締結の出来事そのものは出エジプト記24章に記されています。

 神との「契約」とは、神と人との間に特別な関係が与えられることです。単に創造主と被造物との関係ではなく、神と契約において結ばれた民、すなわち神の民となるのです。そのような契約を与えるために主がシナイ山に降られたというのが、今日お読みした箇所です。

 主がシナイ山に降られる前に、主はモーセに次のようなことを命じておられます。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる』」(10-13節)。ここで命じられているのは「準備すること」です。契約を結ぶ前に、どうしてもしなくてはならない準備があるのです。

 まず、衣服を洗うことです。水の乏しい荒れ野を旅する彼らにとって、当然のことながら、衣服を洗うということは日常の事ではありません。それは彼らが清められる必要があることを象徴的に表す特別な行為でした。彼らはまだ十戒を与えられていませんから、エジプトで行ってきた偶像礼拝が神に背く行為であることを知りません。律法を与えられていませんから、何が神の目に罪とされるかも知りません。しかし、神との契約、そして与えられる神の民としての未来は、今までの日常の延長ではないのだということ、衣服を洗うように彼ら自身とその生活が清められなくてはならないということは、はっきり自覚しなくてはなりませんでした。それは必要な準備だったのです。

 そして、主が命じられたもう一つのことは、人々が山に登らないように境を設けよ、ということでした。当然のことながら、「山に登らぬよう」と主が言われるのは、山に登ろうとする人たちが一定数いるであろうことを想定して語っているのです。主が降られたときに、安易に近づこうとする人たちがいるということです。後で21節では「民が主を見ようとして越境し・・・」と書かれています。そのように、降られた主を「見よう」とする人々がいるということです。だから、「境を設けよ」と主は言われるのです。

 この命令を理解するためには、彼らがどのような人々であったかと思い起こす必要があります。彼らは三ヶ月前までエジプトの中で生活していた奴隷だったのです。エジプトの偶像礼拝の世界にいたのです。そこでエジプト人と同じように偶像に仕えていたのです(エゼキエル20:5-8)。偶像の神は人間の側からいくらでも近づくことができる神なのです。彼らはそのような世界にいたのです。

 その彼らが「主(ヤハウェ)」と名乗る目に見えない神が、モーセとアロンを通して語られ、また、彼らを通して驚くべき様々な出来事を引き起こすことを目の当たりししたのです。しかし、そこでも引き起こされた災いは彼らに降ることはありませんでした。むしろ彼らにとっては、今まで鞭を振るっていたエジプト人を叩いてくれる神、鞭打たれてきた彼らにとっては、主は味方となってくれる神に他ならなかったのです。

 そして、彼らはエジプトを脱出し、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたのでした。そこにおいても、主は彼らにとっては近づくことのできる存在であり、むしろ離れずについて行くべき存在だったのです。そこには本当に意味で主への畏れはなかったことは、彼らがすぐに不平を言い出したことからも分かります。水のないレフィディムにおいては、「『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試した」(17:7)ということまで書かれているのです。しかし、それでも彼らが食べ物がないと不平を言えば、主によってマナが与えられ、水がないと言って不平を言えば、岩から水が出て彼らは飲むことができたのです。そのような彼らにとって、主は味方となり、必要を満たしてくれる神に他ならなかったのです。

 そのような彼らが、「三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られる」という言葉を聞いたらどうでしょう。ある人々は、そのように特別に主が近くの山に降られるという出来事を、楽しみに待ち遠しく思う者もいたに違いありません。また、主が降られたら、我々もその山に登って行ってみよう、と考えた人々がいても不思議ではありません。その「主」とやらをこの目で見てみようではないか、と。つまり、彼らにとって、主は本質的にはエジプトの偶像となんら変わらなかったのです。当然のことながら、そのままで本当の意味で「主」と出会うことはできないし、契約を結ぶこともできないでしょう。そのままで神の民となることはできない。だから、三日目に向けて準備をさせたのです。ここで彼らの意識が変えられなくてはならないからです。

 そのように、山の周囲に境を設けるのは、主が聖なる御方で、罪ある人間が近づくことのできない御方であることを、目に見える形で示すためでした。そして、実際、罪人が主に近づくことは死を意味したのです。しかし、興味深いのは、彼らが越境した場合、彼らは主に撃たれることになるとは書かれていないことです。主は、そのように民に告げよとモーセに言われなかったのです。そうではなく、越境に関する死刑制度を作ることを求められたのです。すなわち、境界に触れ、山に触れた者は、石打ちにされるか、矢で射殺されるか、いずれかの方法で処刑されることとしたのです。

 神に撃たれるという言葉を、畏れをもって聞くことのできない人は、実際に誰かが神に撃たれて死ぬのを見るまで、あるいは自分が撃たれるまで、その意味することは分からないでしょう。しかし、神の手で罰せられるという言葉で言われても分からない人であっても、人の手で罰せられるということなら分かります。誰かが撃たれて死ぬ前でも分かります。その意味では、死刑に処すことを命じられたのは、神の憐れみであったとも言えます。もちろん、誰も死刑にならないことを願ってのことでしょう。

 そのような二日を経て、三日目に主が降られました。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた」(16節)。雷鳴と稲妻は、もとより古代の人々にとっては大きな恐怖の対象でした。厚い雲が山に臨んで山が見えなくなり、どこからともなく鋭い角笛の音が突然なり響いたことも、彼らの内に恐怖を引き起こしたに違いありません。皆、恐怖で震えたのです。そして、火と煙の中に主は降られたのでした。

 エジプト脱出の時や、荒れ野での旅の時とは異なります。主はあえて恐怖を引き起こすような仕方で山に降られたのでした。それは彼らにとって、どうしても必要なことだったのだと思います。先にも触れましたように、彼らにとってこれまで主は近づくことのできる神だったからです。そのような彼らは、主は本来近づくことができない神であり、近づくことは死を意味する聖なる御方であることを感覚的にも知る必要があったのです。契約とは、そのように本来近づくことのできない神が契約の仲保者(この場合はモーセ)と通して特別な関係を与え、神の民としてくださることに他ならないからです。それゆえに、そこで保たれなくてはならないのは、主への畏れなのです。

 主はシナイ山の頂に降られ、モーセを山の頂に呼び寄せられました。モーセは主のもとに登っていきます。主はモーセに言われました。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい」(21-22節)。これはある意味で変な話です。既にモーセが主から命じられて境を設け、越境したら死刑に処せられることも伝えて警告しているのです。ですからモーセは答えました。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです」(23節)。

 もう既に警告しています、とモーセは言っているのです。それでもなお、越境して自らの身に死を招くとしたらそれは自己責任である、ということでもあります。しかし、主はあえてモーセを下らせるのです。主にとっては、「多くの者が命を失うことのないように」ということが重要だからです。主は罪人の死を望まれない。だから何度でも警告するのです。この主の姿は、後にはイスラエルの民に繰り返し預言者を送るという形で歴史の中に見ることができます。それは主の憐れみに他なりません。

 そのように憐れみに満ちた神であり、罪人が近づくことのできない聖なる神。その御方との契約を与えられ、神の民とされ、しかも新約においては「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)と語られている。そのことの意味を深く思い巡らしたいと思います。

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