2024年6月19日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 20:1~11

 出エジプト記20:1‐11

 前回は主がシナイ山に降られたところまでをお読みしました。今日は20章に入ります。そこには契約の中心となる十戒が記されています。この十戒を今週と来週の二回に分けて学びたいと思います。ちなみに、その後22節から23章の終わりまでの部分は「契約の書」と呼ばれます。この「契約の書」については各自で読んでいただくとして、この後は、「契約の書」に言及している契約締結の実際の場面を伝えている24章をお読みする予定です。

 さて、十戒の内容に入ります前に、私たちはまず、その前文とも言える部分に目を留めたいと思います。次のように書かれております。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。十の戒めはこれに続きます。

 主は戒めを先に与えて、「これを守ったら私はあなたを救い出す。これらを守ったらあなたの神となる」と言われたのではありません。主の救いが戒めの前にあるのです。主の恵みが戒めに先行しているのです。結論から言いますならば、十戒に示されているのは、先行する神の恵みに対する感謝の応答としての生活なのです。

 では、人はいかなる仕方において、神の恵みに応えて生きるのでしょうか。ある時、一人の律法学者が主イエスに尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。主イエスは次のように答えられました。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。

 神の恵みに対する相応しい応答は、神を愛することです。そして隣人を愛することです。そして、この二つの掟は、明らかに十戒の前半と後半に対応しています。今日お読みしました十戒の前半には、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することについて書かれております。後半には、自分を愛するように隣人を愛することについて書かれております。つまり、十戒には、神の愛に応えて、どのように神を愛したらよいのか、隣人を愛したらよいのかが、記されているのです。

 では、どのように神を愛したら良いのでしょうか。本日の聖書箇所から明らかなように、それは単に情緒的なことではありません。十戒の前半部分が示しているように、それは一言で表現するならば、「神を正しく礼拝すること」です。

 主は言われました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(3節)。「わたしをおいてほかに」とは「わたしと並べて」という意味です。神を神として正しく礼拝するということは、神ならぬ何ものをも神格化し絶対化して神と並べないことを意味します。

 この世の中においては、そのような神格化・絶対化が、あらゆる対象において起こります。天体や自然が神格化されます。人間が神格化されることもあります。人間の作った体制が、国家が、権力が、富が、イデオロギーが、崇高な理想が、ある場合には芸術が、神格化され絶対化されることもあります。人間はそれらに依り頼み、それらは人間を支配するようになります。

 しかし、神は私たちを他の何もの手にも渡そうとはされません。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令は、「わたしは主、あなたの神」という神の激しい主張に基づきます。神は御自分の民との関係をいいかげんにはなさいません。神は「わたしはあなたの神である」と言われるのです。そして、そう語りかけられる者を完全に御自分のものとされるのです。他の何者の手にも渡そうとはされないのです。それゆえ、私たちが神を愛するとは、ただ神の御手にのみ自分自身を引き渡すことに他なりません。それこそが、まことの神礼拝です。そこにおいて、私たちは、自分自身を含め、神ならぬ一切を相対化するのです。

 そして、第二に主は言われました。「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)。この像とは、5節に書かれているように、ひれ伏したり、仕えたりする対象となる像のことです。礼拝に用いる像のことです。それらを造るなと主は言われるのです。

 古代オリエントにおいて、神の像は神の居場所を意味しました。像のあるところに神はおられると考えられたのです。神の像の製造、それは神を限定する行為に他なりませんでした。いわば人間の意思のもとに神を置く行為、神を人間の手に所有する行為に他ならなかったのです。

 神を所有したい、神を自分の思い通りにしたいという欲求は、古くから人間の心の内に横たわる、根元的な欲求であると言えるでしょう。逆に言えば、そのように所有できない、自分の思い通りにならない存在を、人は神として認めたくないのです。ある人が聖書を読んでこう言いました。「こんなの私の考えている神さまと違う!」そうです、聖書の神は、どう考えても私たちの思考の内に手の内に収めることはできません。人間の思い通りに表現された神の像の前にひれ伏す時、人はもはや神の前にはいないのです。神ならぬものに対してひれ伏しているのです。

 信仰とは、私たちが《神を自分のものにすること》ではありません。私たちが神のものとなるのです。聖書には、私たちを完全に自分のものとすることを欲せられる神の意志が、非常に激しい言葉で表現されています。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(5節)。「熱情の神」は、通常「ねたむ神」と訳されます。この御方は、御自分の民を他の何者の手にも渡そうとはされないのです。完全に御自分のものとしなくてはおさまらない御方なのです。

 さらに第三に、主は言われます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(7節)。「みだりに唱える」とは、主の名の呪術的な使用です。神々の名を呪術に用いるという例は、古代社会にはいくらでも見出されます。なぜ、呪術を行うのでしょう。それは超自然的な力を思い通りに使用するためです。これもまた人間の根元的な欲求です。主なる神は、主の名をそのような仕方で用いてはならないと命じられたのです。それは言い換えるならば、主の力を自分のために思い通りに用いようとしてはならないということです。

 主は、そのような形においても、人に所有されることを拒まれます。主が人を御自分のものとされるのです。さらに言うならば、主が求めておられるのは、「わたし」「あなた」という言葉に見られるように、向かい合った人格的な関係です。愛が成り立つのは人格的な関係です。これこそが神を神として礼拝することに他なりません。私たちが神を「あなた」としてではなく、自分の思い通りになる「それ」として捉えることを、主は良しとされないのです。

 そこに第四の安息日の掟が続きます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(8節)。安息日というのは、週の第七日目です。特定の日です。このように、第四の掟は「時間」に関わっています。時間に関わっているということは、直接私たちの具体的な生活に関わっているということです。

 既に見てきました三つの戒めは、神を正しく礼拝することにおいて、私たちは自分自身を神の手に、神《のみ》の御手にゆだねるべきことを語っておりました。繰り返しますが、神が私たちのものとなるのではなく、私たちが神のものとして生きるのです。そして、そのように生きるということは抽象的なことではありません。単に「わたしの心はあなたのものです」というような情緒的なことでもありません。これは具体的に私たちが生きる「時間」というものに関わっているのです。

 主は、「これを聖別せよ」と言われました。聖別せよとは神のものとするということです。七日間のうちの一日を神のものとするのです。これが神のものとして生きるということと直接的に結びついております。それは少し考えれば誰にでも分かることです。七日の一日をも神のものとせず、七日のすべての時を人間の思いと都合にまかせて用いておいて、「私は神を愛しています。私は神のものです」とはたして言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。神を愛し、神を礼拝して生きるということは、私たちが生きる時間にも関わる、非常に具体的なことなのです。

 しかし、ここで私たちは、最初に見ましたように、これらの戒めが先行する神の恵みに基づいているということを忘れてはなりません。「安息日」という言葉は「止まる」という言葉に由来します。これは「動きなさい」という命令ではなくて「止まりなさい」という命令であり、「働きなさい」という命令ではなく、「休みなさい」という命令なのです。私たちが止まることができるのは、神が先に動いていてくださるからです。私たちが休むことができるなら、それは神が先に働いていてくださるからです。

 そこで、聖書は、さらに私たちの目を神の創造の業に向けさせます。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。この天地の創造に関して、私たちは何もしていないのです。私たちが何もしなくても、この天地は成立したのです。この天地は私たちがいなくても成り立っていたのです。この天地は私たちが支えているのではありません。だから、私たちは休んでも大丈夫なのです。安心して時を神のものとして良いのです。

 キリスト者は、第七日の土曜日を安息日として聖別することに代えて、第一日であり第八日である日曜日を主の日として守ってきました。それは私たちの救いに関わる決定的なことが、既にあの週の最初の日、復活の日になされていると信じるからです。だから、私たちはさらに安心して、この主の日を神のものとするのです。こうして、私たちは安心して主に身をゆだね、主のものとして生き、主を愛し、主を礼拝して生きるのです。

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