2024年6月26日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 20:12-21

 出エジプト記 20:12‐21

 先週に引き続き十戒を学びます。今週は後半です。先週も申し上げましたように、十戒には先行する神の救いの恵みがあります。十戒に記されているのは、神の恵みへの応答としての生活です。神の恵みへの応答は、神を愛し、隣人を愛することです。前半部分には、神を愛することについて記されておりました。後半部分には、隣人を愛することについて記されています。

 主は言われました。「あなたの父母を敬え」(12節)。この戒めの言葉を十戒の前半部分に数える人もいます。父母は家族という生活共同体において、神によって立てられた、神を代表する存在と見ることができます。そうしますと、父母との関係は、即神との関係を意味することになりますから、むしろこの戒めは人との関係よりも、神との関係を表していることになるわけです。このような見方は十分な根拠がありますし、前半後半五戒づつとなって形としても整います。

 もう一方で、第五戒を後半に入れる見方もあります。現実的には父母との関係もまた、その後に出てくるような殺人や姦淫や盗みなどが入り込みうる人間同士の関係に他ならないからです。そのように、この戒めを後半部分に入れますと、ここで父母について語っていること自体、大きな意味を持っているように思われます。いかなる人にとっても、父母は一般化できないある特定の個人です。しかも、それはある期間生活を共有する、もっとも身近な個人です。そうしますと、隣人との関係について語る時、主はまず目に見える具体的な特定の個人について語っていることになります。

 博愛主義者になることよりも、身近な個人を愛することは、より大きな困難を伴います。世界の平和について語る人が、家族と平和であるとは限りません。主はまず父母を指し示して言われます。「父母を敬いなさい」と。

 「敬う」と訳されているのは「重んじる」という意味の言葉です。親が重んじられるべき理由は特に記されてはおりません。これは、父母が重んじられるべき根拠が父母自身にあるのではないことを意味します。根拠は主の命令にあるのです。主がそうお望みであるゆえに、子は父母を重んじるのです。この場合、父母という隣人を愛することは、神が与えられた関係を重んじることに他なりません。

 ちなみに、これはしばしば「年老いた両親への尊敬と配慮」についての戒めであると理解されてきました。確かに、親と子との関係は、互いの人生の途上にて変化します。子が親に依存する期間があり、親が子に依存する期間があります。親が扶養し、養育し、教育する期間が永遠に続くわけではありません。しかし、そのような関係の変化にかかわらず、子は父母を重んじなくてはならないのです。理由は一つ、それは神がそう望んでおられるからです。

 これは親もまた心に留めるべき神の言葉です。敬われるべき根拠を自分の内に求め、子に対して一生懸命に自分自身を指し示している親は気の毒です。親が子に指し示すべきであるのは、自分ではなく神なのです。神を指し示さないということは、父母が重んぜられるべき根拠を、親自らが放棄することになるのです。

 次に短い言葉で表現された四つの戒めが続きます。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない」(13‐16節)。ここには隣人の命、結婚、所有、名誉を重んじるべきことが語られております。隣人を愛するとは、神が隣人に与えておられるものを重んじることでもあるということです。

 主は「殺してはならない」(13節)と言われました。しかし、私たちはこの戒めの言葉がある限定のもとにあることをも見落としてはなりません。ここには法的手続きを経た死刑は含まれておりません。また、さらに困惑させられますのは、ここに戦争行為が含まれていないということです。実際、同じ旧約聖書の中には、神が死刑を命じられる場面や神が戦争を命じられる場面が出てきます。これは簡単に論じることができない、深く大きな問題です。しかし、考える上で大事なポイントはいくつかあります。

 古代イスラエルにおいては、本来、死刑や戦争は、神の命令に基づいて《のみ》行われるものとされています。言い換えるならば、権力者の個人的な利益のために死刑が行われてはならないし、単純に国益のために戦争が行われてはならないということです。そのような力の行使は厳しく戒められているのです。まさに十戒の「殺してはならない」という言葉は、そのような人間の利益追求や怨念による殺人を禁止しているのです。

 そして、私たちが非常に抵抗を覚えるような極端な形ですが、神が死刑を命じられたり戦争行為を命じられたりする記述は、そのように命を与え、あるいは奪う権利は、あくまでも《神のみ》が保持しているという主張に他なりません。実際には、このことを認めないゆえに、極めて恐るべき悲惨なことがこの世界で起こってきたし、今も起こっているのです。隣人を愛することとは、まず命に関する最終的な権威をお持ちである神が隣人に与えたその命を重んじることです。

 次に主は「姦淫してはならない」(14節)と言われました。なぜなら姦淫は、結婚を破壊し、家庭を破壊するからです。姦淫が禁じられているのは、単に自分の結婚が壊れるからではありません。他者の結婚を壊すからです。結婚の破壊は、姦淫が表沙汰になった時に始まるのではありません。裏切りが生じた時点で既に始まります。聖書がその初めから語っているとおり、結婚および性の交わりは、人からのものではなく、神からのものです。それは神が祝福して与えてくださった賜物です。私たちはそのことに畏れを抱かなくてはなりません。隣人を愛するとは、神が隣人に与えられた賜物と神が隣人に与えた関係を、畏れをもって最高度に重んじることです。

 主はまた「盗んではならない」(15節)と言われました。この戒めは、もともと、人を盗むこと、すなわち誘拐することを禁じた戒めであったであろうと考える人もいます。誘拐するのは労働力にするためです。その場合、その人から自由を奪うことになります。しかし、教会は伝統的にこれを「盗み」の行為一般を禁じたものと理解してきました。その場合、奪い取られるのは自由だけでなく、所有一般ということになります。自由にせよ、所有物にせよ、真の所有者は神御自身です。その神が各々に御心に従って分かち与えられるのです。隣人を愛するとは、神が分かち与えられた隣人の所有を、真の所有者への畏れをもって、重んじることに他なりません。

 主はさらに「隣人に関して偽証してはならない」(16節)と言われました。ここで語られているのは、もともとは法廷における証言のことです。法廷における証言は、時として隣人の生死に関わります。ですから正しい証言がなされることは重要です。しかし、偽りの証言が関わるのは単に刑罰だけではありません。根本的には隣人の名誉に関わります。偽りによって名誉が奪われるのです。そして、そのような場面は、実は法廷以外にいくらでも見出されます。無責任な小さなうわさ話という《虚偽の証言》によってさえ、人の名誉は回復不可能なほどに損なわれ、人が死に追いやられることさえあるのです。隣人を愛するとは、隣人の名誉を重んじこれを守ることでもあるのです。

 以上、第五戒から第九戒までを通して言えることは、「隣人」をただその人として見るのではなく、その背後に命を与え、すべてを与えて生かしておられる神を見るということが大事だということです。神への畏れをもって隣人を重んじ、大切にする。そのことを神は私たちと隣人との関係において求めておられるのです。

 そして、最後に第十戒について考えましょう。主は言われました。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(17節)。第十戒は、このように、思考と欲望について語っている点で、他とは異なると言えるでしょう。もっとも、この「欲する」という言葉は、実際に奪い取る行為をも含むものです。しかし、確かにここには人間の心の内に始まることについても語られているのです。

 私たちはここで、既に見てきました殺人や姦淫や盗みについても、問題は既に行為として現れる前に心の中に始まっていることを考えさせられます。使徒ヨハネはその手紙の中に「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3・15)と記しています。憎しみは既に心の中に始まっている殺人です。主イエスも次のように語られました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5・27‐28)。そのように言われた時、確かに主は第七戒の本質を語られたと言うことができるでしょう。

 十戒に先立って「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と語られておりました。この第十戒を読みますと、改めてこの十戒が先行する神の恵みに基づいていることの重大さを思わされます。これは神の恵みにあずかった神の民に与えられた戒めなのです。隣人の家を欲するのは、自分の与えられている恵みの大きさが分からないからです。

 私たちに必要なのは、隣人のものを自分のものにすることではなくて、既に与えられている神の恵みを知り、それを喜び祝うことなのです。本当に欲しなくてはならないのは、神の恵みを知ることであり、そして神の恵みの支配が心の深き所にまで至ることなのです。その意味においても、やはり十戒において求められている生活は、神を愛することについても、隣人を愛することについても、《神の恵みに対する感謝の応答》に他ならないのです。

以前の記事