2024年4月24日水曜日

祈祷会用」出エジプト記 15:1~21

出エジプト記 15:1-21

 イスラエルがエジプトを脱出すると、エジプト軍が追って来ました。そして海辺で宿営している彼らについに追いつきます。前は海、後ろはエジプト軍という危機の中で、モーセはイスラエルの民に言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(14:13)

 「あなたたちのために行われる主の救い」――それは単に、追い迫るエジプトの軍隊を主が打ち破ってくださるということではありませんでした。彼らはその前に、海の中に開かれる道を見たのです。彼らはイスラエルの民の《終わり》でしかなかったそのところに、《終わり》を突き抜けて進み行く新しい道が開かれるのを目の当たりにしたのです。

 しかし、神によって道が開かれるということは、そこを歩いて通らなくてはならないということをも意味します。道を開かれるのは主ですが、歩いていくのは彼らが自らしなくてはならないことです。誰も代わって歩いてはくれません。信仰とはそういうものです。信じるのは自分であり、信じて歩み出すのも自分なのです。他の人が代わりになれません。

 海に開かれた道を歩いて行くのは恐ろしいことであったに違いない。「水は彼らの右と左に壁のようになった」(22節)と書かれているのですから。その中を渡りきることができる保証はどこにもありません。彼らは何の確かさも持ち合わせていません。ただ信じるしかないのです。約束の地へと導くと約束された主の真実と、彼らを救われた神の恵みを信じるしかない。そのように、彼らは信仰によって歩くことを求められたのです。

 モーセは「静かにしていなさい」と言いました。つぶやいてはならない。疑ってはならない。絶望してはならない。希望のない者のように、嘆き悲しんではならないのです。私たちには口を閉ざし、静まるべきときがあるのです。そして、ただ主の真実と恵みに寄り頼んで、主が開いてくださった道を進んで行くのです。

今日の箇所は、そのように主が開いてくださった道を歩いて行ったイスラエルがうたった歌です。これは「海の歌」として語り伝えられた古い歌の一つです。

 ちなみに、21節は「ミリアムの歌」と呼ばれ、旧約聖書の中に出てくる歌の中でも最古のものの一つと言われています。1節から18節の「海の歌」は、このミリアムの歌をもとにして、これが拡大されて造られてきた歌であると考えられます。このような歌は唱われながら伝えられていきます。そうしている内に、歴史の中でふくらんでくるのです。ですから、後の時代の話まで入ってきています。エジプト脱出の話だけではないのです。たとえば17節以下をご覧ください。「嗣業の山」とはシオンの山であり、エルサレムの話がここにうたわれています。そのエルサレムが「あなたの住まい」と呼ばれるようになるのはダビデの時代です。そのように歌い継がれる中で拡大されてきたことがわかります。

 そのように、イスラエルの人たちはこの歌を歌い継ぎながら、拡大してきたのです。それは何を意味するのでしょうか。彼らは、出エジプトをもたらした神は、その後々までもずっと変わらないと信じていたということです。出エジプトの出来事というのは、あの時だけの話ではないのです。その御業を現された神は後の時代の人々の神でもあるのです。賛美を歌い継ぐとはそういうことなのです。

 これを読んでいる私たちも、出エジプトの出来事を、あの時だけの話だと思って読んではならないのです。いや、新約の時代に生きる私たちならば、さらにこの歌を拡大することもできるでしょう。私たちならば、この神はまた、イエスを復活させた神なのだ、という言葉を加えることができるからです。私たちをも罪と死の中から復活させてくださり、新しい命に生かしてくださった神だと歌うことができるのです。

 そのようなことを思いつつ、この歌をじっくり味わいたいと思います。このような歌は、私たちの歌として、解釈するよりも喜びをもって味わうことが大事です。そのために、大事なポイントを三つだけ挙げておきたいと思います。

その第一は、この歌にうたわれているのは、「この方こそ、わたしの神」と呼ぶことのできる喜びであるということです。単に「救われてよかった。危機を脱することができてよかった」と喜んでいるのではないのです。そうではなくて、彼らは「主を讃美して」いるのです。神に向かって歌っているのです。神の力強い御業を歌っているのです。そして、その御方が「わたしの神」であることを喜んでいるのです。「この方こそわたしの神」と。

 これが歌として伝えられているということは、先にも言ったように、後の時代の人も拡大しながら同じように賛美して歌ってきたということです。実際に葦の海を渡った人が「この方こそわたしの神」と言って喜んで歌っているのではないのです。これを実際には経験していない人たちもまた、「この方こそわたしの神」と言って喜びの声を上げるのです。それが賛美をうたうということなのです。だから「主はわたしの歌」という言葉も出て来るのです。

 単に自分の個人的体験から「この方こそわたしの神」と讃美する信仰と、神の民の歴史を共有して「この方こそわたしの神」と賛美する信仰の違いをしっかりと見なくてはなりません。私たちの喜びは単に、「苦しい時、神様が助けてくださった」という喜びではないはずです。イスラエルをエジプトから導き出した神、あの方が「わたしの神なのだ」という喜びをもって神をほめたたえる。イエスを死者の中から復活させた神、あの神こそ「わたしの神なのだ」という喜びをもって神をほめたたえる。賛美とはそのようにささげるものなのです。

そして、第2に注目したいのは、この歌が主への畏れをもって歌われているということです。単に救われたことを喜ぶのではなく、この方こそ「わたしの神」であると歌うことは、神を真に畏れることへもつながるのです。単に起こった出来事を喜んでいるだけであるならば、神を畏れる人にはなりません。

 ここでは何が歌われているでしょうか。それは「敵が滅ぼされた」ということです。「敵」とは単にイスラエルの敵という意味ではありません。既にみてきたように、問題は神への敵対にあるのです。私たちが読んできたのは、かたくなに敵対し続ける者の話だったのです。そのように敵対する者を「わらのように焼き尽くす」(7節)神について歌われているのです。これは驚くべき言葉です。エジプトと言えば、当時において他に並ぶもののない超大国なのです。エジプトというのは、いわば人間の力の極まった姿なのです。しかし、それは「わら」に過ぎないと歌われているのです。神は「息をふきかけるだけ」で超大国の軍隊を滅ぼせる神なのです。

 もちろん、そのような神であるのは、あの出エジプトの時だけではありません。その認識こそが、神への畏れをもたらします。敵対する者に対する神の裁きを歌うときこそ、また、神に敵対するのではない、神の民とされていることがどれほど幸いなことかということも分かるのでしょう。その幸いを歌うこともできるのでしょう。

それはまた、第3の点にかかわってきます。この歌を歌う者は、「贖われた民」の中に身を置いて歌っているということです。

 13節では「贖われた民」と語られています。16節では「買い取られた民」と歌われています。これらは言葉は違いますが、意味合いは同じです。奴隷が買い取られて自由にされるという社会的な習慣を背景にして歌われているのです。イスラエルが神の民とされたのはそういうことであると。

 誰かが奴隷を買い取った上で、その奴隷を自由の身にするとしたら、それは全くその人の好意によるのであり、一方的な恵みとしか言いようがないでしょう。もしそんなことが実際に起こったならば、「なぜそんなことをしてくださるのですか」と問うしかない。そのような出来事であるに違いありません。イスラエルがエジプトから解放されたとは、まさにそのような出来事だったのです。

 力強い神、超大国さえ息をもって滅ぼすことができる神は、同じくイスラエルをも滅ぼすことができたはずですし、滅ぼされても不思議ではない民でした。しかし、神はそうなさらなかったのです。イスラエルをエジプトから導き出して、一方的な恵みによって御自分のものとされたのです。なぜそんなことをしてくださるのですか、と言わざるを得ないような出来事でした。だから「贖われた民」「買い取られた民」という自己認識をもって歌われているのです。それは彼らが今あるを得ているのは、まさに神御自身の一方的な恵みであることを示しているのです。

 神の敵ではなくて、そのような神のものとされた民の中にいる。その民の中にいるゆえに「主はわたしの神」と言える。その幸いを歌っているのがこの歌なのです。単に危機を脱してよかったという歌ではないのです。

 私たちが讃美をする時に、何を考えて讃美をしているのでしょうか。神の一方的な憐れみによって贖われた民の中にいること、イエス様が十字架で血を流してくださって御自分のものとされた教会の中にいること、そこにおいて「主こそわたしの神」と言えること、そのことを喜びながら主をたたえること。私たちの賛美はそのようなものとなっているでしょうか。


以前の記事