2024年4月17日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 14:1~31

 出エジプト記 14:1-31

 「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(13節)。

 そのとおり、彼らは主の救いを見ることになりました。その神の救いの業は、イスラエルの歴史を通じて語り継がれることとなりました。そして、大事なことは、彼らがそのような主の御業を見たのは、最初にして最大の危機に置かれ、望みが絶たれた時だったということです。

 モーセに率いられてエジプトから脱出した「イスラエルの人々は、意気揚々と出て行った」(8節)と書かれていました。ところが、彼らが出て行った後、エジプト王とその家臣は彼らを去らせたことを後悔し、「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」(5節)言い出します。そして、ファラオは自ら軍勢を率いてイスラエルの後を追ったのでした。そして、ついにピ・ハヒロトの傍らで宿営していた彼らに追いつきます。

 イスラエルの民が宿営していたのは海辺でした。もはや逃げることはできません。前は海、後ろは追い迫るエジプト軍。イスラエルの民は絶体絶命の窮地に陥ります。彼らは恐怖におののきました。しかし、そこでモーセは民に言ったのです、「恐れてはならない」と。そして言いました。「今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と。

 「見なさい」と言われていますけれど、実は、彼らは既に神のなさることをたくさん見てきているのです。神様が解放してくださらなければ、奴隷であるイスラエルの民がエジプトを脱出することなど、できるはずがなかったのですから。それは明らかに神がしてくださったことなのです。しかし、神様がどんなに大きなことをしてくださっても、人は見ているようで見ていないものです。人間の行っていることしか見ていないのです。先にも触れたように、彼らは「意気揚々と出て行った」と書かれているのです。それまで奴隷であった者たちが、解放された喜びをもって家族ごとに荷物をまとめてエジプトを脱出しようとしている。――そう、そんな自分たちの姿、お互いの姿、そのような人間の業しか見ていなかったのだろうと思います。

 しかし、彼らは今や、人間の力ではどうすることもできないところに追い詰められたのです。当然彼らは恐れざるを得ない。しかし、そこで彼らは「恐れてはならない」という言葉を聞いたのです。「あなたたちは見なさい」と。そうです、そこでこそ見なくてはならないことがあるのです。そこでこそ神の御業に目を向けなくてはならないのです。

 しかし、神の救いを見る前に必要なことがあります。モーセは言いました。「落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。まず落ち着かなくてはならない。しかし、「落ち着く」とはどういうことでしょう。実は、「落ち着いて」と訳されている言葉は、もともと「立ちなさい」という言葉なのです。あるいは「自ら立つ」「自らを立たせる」という意味です。モーセは「立ちなさい、そして見なさい」と言っているのです。今いるところにしっかり立つこと。それが「落ち着く」ということの内容です。今いるところは彼らにとっては葦の海の海辺です。そこにしっかり立たねばならないのです。

 モーセが「落ち着きなさい。立ちなさい」と言われたのは、今いるところに自ら立っていなかったからです。その直前に彼らが何と言っているか聞いてみましょう。彼らはモーセに言いました。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(11‐12節)。

 「我々を連れ出したのは」とは、「《あなたが》我々を連れ出したのは」という意味です。「一体、何をするために」とありますが、「一体、《あなたは》何をするために」と言っているのです。つまり彼らはモーセが導き出したと言っているのです。これはモーセがしたことだと言っているのです。

 モーセという人間によって連れ出されたから今のこの危機的状況にいるのだ。モーセという人間がしたことのゆえに、今、絶体絶命の海辺にいるのだ。そう思っている限り、今いる場所にしっかり立つことなどできません。「『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と彼らは言っているのです。誰かのせいで仕方なく来てしまった。誰かのせいで仕方なくて今ここにいる。そう思っている限り、今いるところにしっかり立つことなどできません。

 しかし、彼らを連れ出したのはモーセではないのです。主なる神なのです。そもそも、海辺にいるのは主が命じられたからでした。主はモーセに言われたのです。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ」(2節)。そして、彼らは確かに主の命令を聞き、その上で従ったはずなのです。「彼らは言われたとおりにした」(4節)と書かれているとおりです。

 ならば、今ここにおいても、彼らはモーセにではなく、彼らに命じ、彼らを導いてきた主に思いを向けなくてはならないのです。主なる神が導き出してくださって、主が今いるところに置かれたのです。そして、主がそこに置かれたのならば、そこには目的があるのです。荒れ野で死なせるためではないのです。

 彼らは言いました。「ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます」と言ってたではありませんか、と。そのように、彼らは確かにエジプト人に仕えていたのです。しかし、その彼らを主が導き出されました。それは、エジプト人に仕えていた者たちが、主に仕える者となるためなのです。彼らが導き出されたのは、荒れ野で死なせるためなどではありません。エジプト人に仕え、エジプトの神々に仕えていた者たちが、主に仕える神の民となるためなのです。主に仕える神の民として、この世界に主の御業を告げ知らせる尊い目的に仕えるようになるためなのです。

 主が導かれて今のところにおり、主が目的をもって置いていてくださる。その事実を受け止めてこそ、今のところにしっかりと立てるのです。そうして、初めて人はそこで主の御業を見ることができるのです。今いるところにしっかり立とうとしない人は主の御業を見ることができません。人間のことしか見ようとせず、人間のせいでこうなったとしか考えられず、人間のことに不平や不満を言い続けている限り、主の救いの御業を見ることはできません。モーセは言うのです。「落ち着いて、しっかり立って、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と。

 そして、モーセは言いました。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14節)。しかし、彼らが見たのは、ただ単に、追い迫るエジプトの軍隊を主が戦って打ち破ってくださるということではありませんでした。もちろん、結果的に彼らは主が戦われる姿を見ることになります。今日お読みしたとおりです。しかし、まず彼らが見ることになったのは、彼らの行く手を阻んでいた海の中に道が開かれるという主の御業だったのです。いわば《終わり》でしかなかったそのところに、《終わり》を突き抜けて進み行く新しい道が神によって開かれるのを、彼らは目の当たりにすることとなったのです!

 主は道を開いてくださいます。それは彼らが全く思っても見なかった方向に開かれた道でした。主はそのように、私たちが思いも及ばない方向に道を開かれるのです。しかし、神によって道が開かれるということは、そこを歩いて通らなくてはならないということを意味します。主はモーセにこう言っておられます。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」(15節)。

 救いを叫び求める時は終わりました。イスラエルの民は出発しなくてはなりません。イスラエルの民は進んでいかなくてはならないのです。道を開かれるのは主です。しかし、実際にその足で歩いていくのは主の民です。誰も代わって歩いてはくれません。

 海に開かれた道を見た時、それは望みのなかったところに望みが開かれたのですから、そこには喜びもあったことでしょう。しかし、海に開かれた道を歩いて行くことはまた、この上なく恐ろしいことであるに違いありません。「水は彼らの右と左に壁のようになった」(22節)と書かれていますから。

 彼らが渡りきるまで道が開かれている保障はどこにもありません。そもそも、その中を渡りきることができる保証はどこにもありません。後からはエジプト軍が追い迫っているのですから。海の中を行く彼らは何の確かさも持ち合わせていませんでした。ただ信じるしかありません。約束の地へと導かれる主の真実と、彼らを救い出された神の恵みを信じるしかなかったのです。そのように、彼らは信仰によって歩くことを求められたのです。

 主が戦われます。主が救いの業を現されます。主が道を開かれます。そうです、主は新しい道を開いてくださいます。しかし、そこで私たちがなすべきことがあります。どこまでも主に信頼して歩くことです。私たちが主に信頼し、主に導かれて歩んでいるならば、主に仕える民であり、約束の地へと向かう主の民であるならば、いかなるものも私たちにとって《終わり》ではあり得ません。そうです、最終的に神は、キリストの復活によって、《死》さえも、私たちにとって終わりではないことを示してくださったのです。

 モーセは「静かにしていなさい」と言いました。私たちはつぶやいてはなりません。疑ってはなりません。絶望してはなりません。希望のない者のように、嘆き悲しんではなりません。私たちは口を閉ざし、静まるべきです。そして、ただ主の真実と恵みに寄り頼んで、主が開いてくださった道を進んで行くのです。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」。これは私たちにも語りかけられている言葉です。


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