出エジプト記 24:1-18
二回にわたって十戒の内容について学びました。続く20章22節以下は23章の終わりまで一つのまとまりをなしていて、この部分は「契約の書」と呼ばれます。今日お読みした24章において、モーセが「契約の書を取り、民に読んで聞かせた」(24:7)と語られているのは、この部分であると言われます。この「契約の書」については、各自読んでおいてください。今日はその部分を飛ばして、24章に入ります。
1節と2節には後で戻ってくるとして、契約の締結の場面である3節から8節までを先に見ておきたいと思います。
「モーセは戻って」、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせました。この「すべての言葉」は、20章に記されていた十戒、そして、「すべての法」は20章22節以下の「契約の書」を指すものと考えられています。これを読み聞かせられたとき、「民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った」(3節)と書かれています。
この民の応答の仕方、そして応答の言葉は極めて大きな意味を持っています。すでにこれは19章8節に出て来ています。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは主が語られたことをすべて、行います』と言った」。なぜ、これが重要かと言うと、ここにおいて民が一つとなるとはどういうことかが明らかに示されているからです。
神が契約を与えられ、民は契約を与えられた者として生きる。そこで民は一つになるのです。このことをさらに明らかにしているのが続くモーセの行為です。「モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた」(4節)。ここに「イスラエルの十二部族」という言葉がこの物語においてはじめて出てきます。これから、この十二部族ということが大きな意味を持ってきます。もともとイスラエルは「部族」の集まりでした。その十二の部族がどのようにして一つの「民(アム)」となるのか。それは「契約」によってなのだということが、続く行為においてはっきり示されているのです。
その契約についてここで強調されているのは「血が振りかけられた」ということです。「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(5-8節)。
「焼き尽くす献げ物」は全部を焼き尽くす捧げ方です。「和解の献げ物」の場合は、脂肪を捧げて、残りは共に食べるのです。だから後で「食べ、また飲んだ」という表現が出てくるのです。しかし、ここで重要なのは、捧げる行為そのものではありません。契約を結ぶ際に、犠牲が屠られたということです。そこで血が流されたということが大きな意味を持つことになるのです。
その意味するところは何なのか。それは後に明確に語られることになります。その第一の意味は、後にレビ記において明らかにされます。それは「罪の贖い」です。
イスラエルの民は「契約」を与えられます。そして、宝の民、祭司の民とされるのです。祭司の民が必要なのは、この世界が神に背いているからだ、と以前申し上げました。しかし、イスラエルの民はもともとこの世の一部であったのです。エジプトにおいて、エジプトの神々を拝み、神に背いて生きてきたのです。それがそのまま神の民となれるはずがない。神との特別な関係に入れるはずがない。それは明らかです。そこには既に罪による断絶があるのです。だからまず、罪が贖われ、清められねばならないのです。本来ならば神に裁かれて死ぬべきものが、代わりに動物が死ぬことによって、生かされるのです。それが契約の前提となっているのです。そのことを通して初めてイスラエルは神の民とされることができるのです。
それは新しい契約においてはより明確に語られています。私たちが今、新しい契約の民とされ、教会とされていることは当たり前のことではありません。私たちはこの罪の世界の一部だったのです。それが今、神の民として集められ、神を礼拝しているのは、イエス・キリストの血によって罪が贖われたからです。その罪の贖いなくして神との「契約」はあり得ないのです。
その第二の意味は、この契約において結ばれる神との関係は、まさに「命」によって表現されるものだということです。第一の意味として語られたことと関係しますが、レビ記には次のように語られています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」(レビ記17:11)。
「命」である血の半分が祭壇に、すなわち神の側にかけられました。もう半分が民の側に振りかけられます。血に染まって真っ赤になりながら、そこにははっきりと神と人との間に、そして真っ赤に染まったお互いの間に、命の関係が結ばれたことが目に見える形で見てとれたことでしょう。すなわち、それがいかに重い関係であり、重く太い絆であるかということです。
その事実はまた、新しい契約においてはより明確になります。動物犠牲が指し示していたのはやがて流される神の子の血に他ならないからです。私たちと神とは、神の子の流された血、神の子の命によって結ばれているのです。そのようなとてつもなく尊い命の絆によって結ばれているということを、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という主の御言葉により、聖餐の度に私たちは確認しているのです。
このことにおいて、キリスト教信仰というものが、単なる人間の宗教心と同一ではないことがはっきりと示されていると言えます。人間の宗教心と一緒なら、キリストの血が流されなくてもよいのです。聖餐によって繰り返し想起する必要もないのです。私たちはそのような人間の内にあるものではなく、とてつもなく重く太い絆を神との間に、また互いの間に与えられているのです。新しい契約として与えられているのです。
神が恵みによって与えてくださった契約を重んじること、またその契約に誠実であること。それが「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という言葉によって表現されています。それは単に規定を守るという「お約束」ではありません。そこに言い表されているのは恵みによって契約を与えてくださった神への「従順」なのです。従順であるとは神の言葉を重んじ、神の言葉に聞き従うことです。教会において、聖餐が単独で行われることはありません。そこでは必ず聖書が朗読され、説教によって解き明かされるのです。それは聞き従うということと聖餐とは切り離されてはならないからです。
最初に見たように、この「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」という言葉を、「民は皆(直訳すれば「すべての民は」)」言ったのです。十二部族がそこで一つになったのです。契約の重さを認識し、その契約に誠実に生きるところにおいて、一つになったのです。民が一つになるとはそういうことです。それは教会が一つになるということも同じです。この契約の重さということを、イエス様が流してくださった血による契約の重さを本当に重んじてこそ、一つになれるのです。その重さを認識した上で、神に聞き従うつもりで、神の言葉に共に耳を傾けることなくして一つにはなれないのです。互いによく話し合って理解し合うことは大事かもしれませんが、それよりも大事なことは、「血による契約」ということを重んじることなのです。
さて、ここで1節に戻ります。モーセは既に次のように命じられていました。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない」(1-2節)
既に見て来たような契約締結の儀式を経て、既に命じられていたように、モーセたちは山に登っていきます。そして、そこには聖書の他の箇所には見られないような光景が描かれているのです。「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(11節)。本来神を見たならば打たれて死ななくてはならないはずの彼らが生きているのです。それは「契約」が何であるかを象徴するような出来事でした。まさに神との親しい交わりが代表らによって経験されたのです。それはまだ代表だけでしたが、ふもとの民もまた、その出来事によって表されている神との関係にあずかっているのです。
しかし、今日の箇所は「血による契約」の締結について語られていながら、既にその関係に黒雲が影を落としているのを見ることになります。
ここでは、主のもとに登った人々のリストとして「アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老」という言葉が繰り返されています。この「ナダブとアビフ」というのは、アロンの長男と次男です。しかし、実際に祭司の家系の祖となるのは彼らではなく、三男と四男のエルアザルとイタマルです。それはなぜか。ナダブとアビフは神の言葉に従わず、打たれて死んでしまうからです。それゆえに、ナダブとアビフの名前が、あの時の幸いを経験した人々のリストに残されているのは、その意味では悲しい記憶でもあるのです。
さらに12節以下には、モーセが神の山に登っていくときに、長老たちにこう言ったことが記されています。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」(14節)。
モーセはこの後長く不在となります。しかし、それは彼らが指導者であるモーセに聞き従うのか、それとも神に聞き従うのかを問われることになる不在でもあったのです。そして、実際はどうであったか。この不在の期間を託されたアロンは、民の求めに応えて金の子牛を作ることになるのです。
契約を重んじなかった人々、契約によって与えられた幸いな関係を軽んじ、失っていく人々の姿。それはイスラエルの歴史を通じて見ていくことになります。なぜ「旧約」と「新約」があるのか。それは、イスラエルが契約を破ったからです。旧約聖書は、まさに破られた契約について語っているのです。しかし、神はそれをもって神の民の終わりとはされませんでした。この世界の救いを終わりにはされませんでした。神は新しい契約を与えてくださいました。このように与えられた新しい契約の中に私たちは生かされているのです。私たちが、御子の血によって与えられたこの契約を重んじて生きるとは、具体的にいかなることを意味するのでしょうか。