ヨハネの手紙一 2:18‐27
「子供たちよ、終わりの時が来ています」(18節)とヨハネは言います。今の世の終わりは、来るべき世の始まりです。サタンが支配するこの世界の終わりは、神が支配する新しい世界の始まりです。それは神の国の到来であり、待ち望んでいた救いの完成の時です。そのような「終わりの時が来ている」とヨハネは言うのです。
この手紙が書かれたのは紀元一世紀の終わり頃と考えられます。キリストの復活、昇天から既に六十年以上の時が経っていました。言い換えるなら、教会はその六十年以上も前から「終わりの時が来ている」と言い続けていたのです。六十年以上前の人が「もうすぐキリストが再臨なさる、もう終わりの時が来ている」と言っていて、実際には来なかったにもかかわらず、ヨハネは「終わりの時が来ている」と言っているのです。ペトロも言っていましたでしょう。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(1ペトロ4:7)と。教会は常に「終わりの時が来ている」と言い続けてきたのです。そして、これを読んでいる今の私たちもそう信じるようにと言われているのです。
そこに何の意味があるのでしょう。少なくとも大事な二つの意味があります。一つは、今目にしている悪しき世界は永遠ではない、という信仰です。そして、もう一つは常に今この時が終わりの時、救いの時であり得るという信仰です。悪の支配は永遠ではないのです。私たちのいかなる苦しみも永遠ではないのです。常に今、この瞬間が救いの時であるかも知れないのです。少なくともその希望をもって生きてよいのです。
さらに次のように書かれています。「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります」。反キリストが減ってきたから救いが近いと分かる、と言っているのではないのです。多くの反キリストが現れている。むしろ事態は悪化している。《だから》終わりの時、救いの時だと言っているのです。私たちの目から見ると救いから遠ざかっているように見える時、事態がどんどん悪くなっているように見える時、神が何もしないで手をこまねいているように見える時、「《だからこそ》救いは近い」と言える。その信仰を持つことが大事なのです。
さて、その反キリストですが、具体的にはこれまでお話ししてきました異端を指していることは明らかです。反キリストと呼ばれているのが、キリスト者に対してあからさまに敵意を示し迫害してくる人々ではなく、異端の教えを説く人々であることもまた、私たちにとって重要なことです。本当の敵は敵の顔をして近づいては来ないのです。信仰者にとって本当の危険は、いかにも危険に見えるものによってもたらされるのではないのです。
実際、異端であるグノーシス主義者たちは多くのキリスト者の目に、当初は極めて魅力的に見えたに違いないのです。当時のギリシアの哲学的な思想に造詣が深く、自ら神秘的な体験も持っていて、特別な神知識を得ていると主張する人々。この目に見える世界や自分の肉体からも解放されて霊的な人間となったと主張する人々。そのような彼らが御子の受肉や十字架における罪の贖いを否定して、哲学的な思想に基づく新しい教えを説いていたとしたらどうでしょう。伝えられてきた通りに受肉や贖罪を信じている自分たちの方が無知で時代遅れであるかのように思えてきたとしても不思議ではありません。
そして、そのような一見魅力的な教師たちが追従者を引き連れて出て行ってしまったのです。19節に書いてあるとおりです。恐らく古くさいところから出て行って、新しい教会を作るのだと言う主張がそこにはあったことでしょう。残された人たちの中には動揺が走ったに違いありません。自分たちは無知のまま取り残されてしまったのではないか。自分たちは教養ある洗練された世界から取り残されて行っているのではないか。また本当の神体験の世界からも取り残されているのではないか、と。そうしますと、一生懸命に《教会外から》何かを取り込まなくてはならないかのように思ってしまうかもしれません。
しかし、そのような人々に対して、ある意味で自信を無くしているような人たちに、ヨハネはこう言うのです。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」と。油を注がれているとは聖霊を与えられているということです。馬小屋で生まれ、十字架にかけられて死んだナザレのイエスをメシア・キリストであると信じる信仰は、この世からは絶対に出てこないのです。それこそ聖霊のお働きによって信じさせていただいたのです。これは聖霊によって与えられた真理なのです。そして、この罪の贖いのゆえに、私たちは御父と結ばれたのです。「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」(23節)と書かれているとおりです。
ですからヨハネは言います。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」(24節)。「初めから聞いていたこと」とは、伝えられた福音のことです。過去の教会から手渡された福音です。それをしっかりと自分の内に留めるのです。本当の意味で自分のものにするのです。特にこの手紙が重要なこととして語っている受肉と贖罪の信仰を自分の内に留めなくてはなりません。そのことなくして罪の赦しはないし、当然のことながら御子との交わりもないし御父との交わりもないからです。「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」(24‐25節)。
要するに、彼らにとって大きな課題は、伝えられている福音についてもっともっと自信を持つことだったのです。与えられている信仰について、その大いなる価値を認識することだったのです。この手紙はそのために書かれたと言っても良いでしょう。5章にも「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(5:13)と書かれているとおりです。
現代のクリスチャンについても言えると思うのですが、往々にして私たちの問題は、この世のことについて疎いことではなくて、与えられている福音の価値について疎いことなのです。ヨハネは今日の箇所で言っていますでしょう。「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(26‐27節)。
「だれからも教えを受ける必要がない」というのは、この世から教えられる必要はない、ということです。哲学者から教えを受ける必要はない。グノーシス主義の思想家から教えを受ける必要はない。もちろんこれはこの世の学問を否定しているわけではありません。この世に生きる人間である限り、この世の教えは常に相応の価値を持つのでしょう。しかし、こと救いに関する限り、永遠の命に関する限り、既に私たちは聖霊により真理を与えられているのです。時代の思想に対して、全く気後れする必要はないのです。「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(27節)。
(祈り)