2025年5月18日 主日礼拝説教
ヨハネの手紙一 2:1-11
古くて新しい神の掟
今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。
一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなりますが、しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。
この手紙には「掟」という言葉が繰り返されています。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容ははっきりしています。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。
例えば次の章においては、こう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。
これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。間もなく捕らえられ、十字架にかけられることが分かっているイエス様、十字架を前にしたイエス様の言葉です。
皆さん、「互いに愛し合いなさい」と、「愛する」ということならば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではないのです。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。
しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれたのです。「これは『新しい掟』です」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別な新しさがあるのです。それまで人類が経験したことのないような、そんな新しさがあるのです。その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。
ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったということです。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。そのように、決定的な出来事とは、イエス・キリストが遣わされ、私たちの罪のために十字架にかかってくださったことです。そのようにして、神の愛を示してくださったということです。
「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現されたのです。神が愛してくださっているならば、私たちはもう決して暗闇の中にはいないのです。ちょうど太陽が昇った後ならば、太陽の光が私たちを確実に照らしているのと同じです。
そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、そのまばゆい光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。この命令は、神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがあるのです。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われました。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。
既にまことの光が輝いているのだから
そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、神そのようにして与えてくださっている交わりに背を向けるならば、それは何を意味するでしょうか。
それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。だからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。
私たちが持っている新共同訳では、「神を知っている」という言葉も「光の中にいる」という言葉も鉤括弧に入れられていますでしょう。原文に鉤括弧があるわけではありません。しかし、あえてこのように訳出しているのは、そのように主張する人たちが現実にいたことが知られているからなのです。当時の教会には、自分たちには特別な知識が与えられていて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシス(知識)と呼ばれるようになる異端の人々です。
その異端の思想そのものはさておき、人が「神を知っている」と言い、「光の中にいる」と主張する背景には、何らかの「体験」というものがあるはずです。特別な知識を与えられたと思える体験がある。それは時として極めて神秘的なスピリチュアルな体験であるかもしれません。
しかし、そのようなスピリチュアルな体験がイコール「神を知ること」となるのか。それによって「光の中にいること」となるのか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。本当に神を知っているのなら、神の掟を守っているはずだということです。互いに愛し合っているはずだ、と。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(3節)とヨハネは言うのです。
だから彼はこう続けます。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(4節)。また、こうも言っています。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)と言うのです。
そこに互いに愛し合って共に生きているという現実がなかったら、そこで分かれ争い憎み合って生きているのなら、それは「神を知っている」ことにならないのです。「光の中にいる」ことにはならないのです。
しかし、実際にヨハネがこの手紙を書いた時代に限らず、教会の歴史の中には繰り返しこのようなことは起こってきたのでしょう。敵対し争い合うのは往々にして「神を知っている」という人たちです。憎み合い袂を分かってきたのは「光の中にいる」すなわち、「わたしには見えている」と主張する人たちです。
いや、それは教会の歴史に留まりません。現代においても憎み合い殺し合うことさえしているのは「神を知っている」という人たちです。「光の中にいる」と言い、「わたしには見えている」と主張する人たちです。それはここにいる私たちにとっても、決して他人事ではないのです。
皆さん、既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはならないのです。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)。言い換えるならば、闇の中にいたらつまずく、ということです。
いや、つまずくだけだったら、まだ良いのです。「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(11節)。真っ暗闇の中を突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたならまだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。何が待ち受けているか分からないでしょう。
そのように神の愛の光を退けて、兄弟を憎むという暗闇の中を、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、それは恐ろしいことなのです。何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。
「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。いつの間にか暗闇の中に身を置いていた自分がいるならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。