2023年3月8日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:13~21

ヨハネの手紙一 4:13‐21

 今週も先週の箇所と同じ表現が出て来ました。「神は愛です」(4:16)。グノーシスの異端の人たちは「神を知っている」と言っていました。しかし、神を知るということは、ヨハネに言わせるならば、愛である神を知ることなのです。ヨハネがあふれる喜びをもって「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(16節)と語っているとおりです。

 「わたしたちに対する神の愛、神がわたしたちに抱いていてくださる愛」を知った。そして、今なお知っている。いや、知っているだけではありません。彼は信じているのです。愛を信じることができる。愛を信じて生きていける。いや、「生きていける」だけではなく、愛を信じているということは、愛を信じて死んでいくこともできるということなのです。なぜなら神の愛は永遠だからです。これが神を知るということです。愛なる神を知るということなのです。

 ヨハネは神の愛をどのように知ったのか。それは先週お話ししたことを思い起こしてください。10節でヨハネはこう言っていました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。彼の指先は十字架にかかったキリストを指し示しています。そして、もし彼が礼拝の場にいたならば、彼は聖餐のパンとぶどう酒を指差してこう言ったことでしょう。「ここに愛がある」と。ここに私たちの罪を償ういけにえがある。神自ら備えてくださった、罪の贖いがある、と。

 今日の箇所との関連で、「エデンの園の物語」を思い起こしてください。アダムとエバが禁じられた木の実を食べてしまった後の描写は次のとおりです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:8‐10)。

 ここに聖書で初めて「恐れ」という言葉が出てきます。さわやかな風が吹く中、野の草花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜んで生きている中、アダムとエバは木の陰に隠れているのです。神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。そこにあるのは恐れです。これは昔々の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神様が追い求めてくださいました。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼びかけたように。そして、神自らが罪の償いの犠牲を用意して、その犠牲を屠られたのです。イエス・キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。

 それは何を意味しますか。神様があくまでも愛の手を伸ばし続けられたということです。そこにあるのは「あなたは罪人だ。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表示なのです。そう言って、愛の御手を伸ばし続けられた。それが神自ら罪の償いの犠牲を備えてくださったということです。それがキリストの十字架です。だからヨハネは言うのです。「ここに愛がある」と。

 この愛を受け入れ、感謝をもって、この愛を信じて生きていく。さらにはその愛に応えて、互いに愛する者として生きていく。そのことをヨハネは、「愛にとどまる」と表現しているのです。それこそが、愛なる神と共に生きることであり、さらに言うならば、愛なる神と一つになって生きることなのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりです。

 そのように、私たちが愛にとどまるということが大事なのです。確かに神は愛です。愛は神から来るのです。しかし、神の愛は一方通行では完成しないのです。私たちが愛を受け入れ、愛を信じて生き、さらに互いに愛し合って生きる時に、神の愛は全うされるのです。そして、そこにはさらに驚くべきことが書かれております。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(17節)。

 「イエスのようである」は、原文では「彼のようである」と書かれているのですが、新共同訳のように、内容的にはイエス様のことを言っていると考えてよいでしょう。皆さんは、「この世でわたしは、イエスのようである」と言えますか。「そんなこと、絶対にありえない」と思いますでしょうか。しかし、わたしたちが「愛にとどまる」ならば、そのように言えるのです。「この世でわたしは、イエスのようである」と言えるのです。どのような意味においてでしょう?ただ一点においてです。すなわち、父なる神との関係においてです。神との関係において、「わたしはイエスのようである」と言えるのです。

 神の顔を避けて隠れているイエス様、想像できますか。それはありえないことでしょう。なぜですか。罪のない御方だからです。ですから、イエス様はいつでもまっすぐに父なる神に向かって、「父よ」と呼びかけておられたのです。そして、私たちもそのようなイエス様のように生きることが許されているのです。なぜですか。既に述べましたように、罪を償う犠牲が屠られたからです。だから、もうアダムのように、「あなたの足音が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」などと言う必要はないのです。この世にあって、私たちもまた顔を上げて、「父よ」と呼びかけることができるのです。イエス様のように。ならばヨハネが言うように、最終的な裁きの日さえも、もはや恐怖の対象とはなり得ないでしょう。

 ですから彼はさらにこう言っているのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(19節)。ここで言われている愛、「完全な愛」とは、これまでの流れから明らかなように、償いの犠牲として御子を与えてくださった神の愛です。「神は愛です」――この愛こそが、恐れを外に放り出してくれるのです。ここに「恐れは罰を伴い」と書かれていますが、意味合いとしては「恐れと罰は関係している」ということです。そのように訳している聖書も少なくありません。確かに様々な恐れというものがありますが、究極的に恐ろしいのは神に処罰されることであるに違いありません。アダムも「恐ろしくなり、隠れております」と言いましたでしょう。確かに、「恐れと罰は関係している」のです。

 ならばその恐れを締め出してくれるのは、神の愛以外にはあり得ません。神の愛が人間にとって最も根源的な恐れを外に放り出して締め出すのです。「恐れる者には愛が全うされていないからです」とヨハネは言いました。大事なことは、自分の身を必死で守ろうとすることではないのです。「愛の内に全うされること(直訳)」なのです。キリストにおいて現された神の愛を受け入れ、神の愛を信じて生きること、完全に神の愛の中に身を置いて生きるようになることなのです。

 そのように、神がまず私たちを愛してくださいました。そのような神の愛を知ることは、既に繰り返し語られているように、互いに愛し合って生きることへと導くはずです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とヨハネは言いました。これこそが本当の意味で神を知る人の言葉です。そのように私たちも言えるように、そのように神を知るようにと、私たちは十字架のみもとに集められ、今ここにいるのです。
(祈り)

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