ヨハネの手紙一 5:9‐15
今日は9節からお読みしました。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。
「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が、「わたしは見た」と言えば、それを自分は見ていなくても、「ああ、そうなんだな」と言って信じる。そういうことがあるわけでしょう。裁判などでは、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけです。実際に裁判官が事実を見ていなくても証言が受け入れられるならば、事実が確定されるのです。そのように、私たちは確かに「人の証しを受け入れる」ということをしています。
それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があると言うのです。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)だと言います。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節には次のように書かれています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」
神は御子について何を証言しているのか。二つのことが書かれています。「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと」と「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」です。これは後の方から考えた方が分かり易いと言えます。
神は「永遠の命が御子の内にあること」を語られました。そして、永遠の命が御子の内にあることを私たちに語っているのは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」
実際に、どのように神はそのことを語られたのでしょうか。どのように証言されたのでしょうか。ここには書かれておりません。しかし、ここまでの流れで明らかでしょう。グノーシスの異端の人たちが受け入れなかったこと、すなわち受肉と贖罪によってです。御子に肉をとらせて人間とされたこと。そして、その肉をとった御子を十字架にかけて罪の贖いとされたこと。そして肉を取られた御子、イエス・キリストを復活させたこと。これらすべてが御子についての証言なのです。「御子の内に永遠の命がある。その永遠の命が内にある御子をあなたがたに与えた。それは永遠の命をあなたたちに与えるためだった。」これが、イエス・キリストにおいて神が語っておられること、証言しておられることです。
そうです、神は既に与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではないのです。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。
しかし、永遠の命だけを単純に受け取るということはできないのです。神が証言しておられるように、神はそれを御子の受肉と御子による贖罪という仕方で与えられたのですから。御子の内にある永遠の命として与えられたのですから。だから、私たちは肉を取られた御子、イエス・キリストを受け入れるという仕方で、永遠の命を受け取るのです。
ですから、次のように書かれているのです。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。
「御子と結ばれる」とか「御子を持つ」ということは、信仰によって起こる霊的な現実です。御子を持っているのか、持っていないのかは目に見えないことです。しかし、教会は目に見えない霊的な現実に直接かかわっている《目に見えるもの》をも大切にしてきたのです。すなわち、洗礼と聖餐です。ですから御子を持つということは、具体的には信仰によって洗礼を受け、聖餐に与るということです。
この手紙を読んでいるのは、既に洗礼を受け、聖餐に与っているキリスト者たちです。異端の人たちは、その交わりから出て行ってしまいました。残った彼らは、いくばくかの不安を抱えていたことは既にお話ししたとおりです。しかし、ヨハネは言うのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と。彼らは神の証しを受け入れたのです。御子を受け入れたのです。具体的には洗礼を受けて、「御子を持った」のです。御子の内には永遠の命がある。ならば彼らは既に永遠の命を得ているのです。
さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。永遠の命を持っているということは、死んだ後や終末にのみ関わるのではなく、今、ここにおいて私たちが生きることに関わっているからです。ここまでの話で明らかなように、永遠の命とは神との交わりに他なりません。それは言い換えるならば神の子供として生きることに他ならないのです。
神の子供としての姿の具体的な一面は大胆に神に近づいて祈る姿です。今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉です。
3章に書かれていたように、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」(3:9)。この章でも繰り返されています。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(18節)。神の子供としての本来の私たちは罪を犯さない。言い換えるならば、神の心と一つになっているということです。現実には肉のゆえに罪を犯してしまうゆえに、神に告白して清めていただく必要があるのですが(1:9)、永遠の命に生きている新しく生まれた人としては、神の心をわが心として生きているのです。そのような内なる人が確かに信仰によって生まれているではありませんか。
そのような神の子供として祈る祈りが、ここでは「御心に適った願い」と言い表されています。そして、その願いは必ず聞き入れられるのです。あのラザロの墓の前でイエス様が祈られたようにです。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:41‐42)。このイエス様のように生きることができる。それが永遠の命をいただいた者として生きるということです。そのような命を、私たちは既に与えられているのです。
言い換えるならば、私たちが人生において心を用いるべきことは、本来的な神の子供として生きること、イエス様と同じように父の心と一つになって生きることだけなのであって、その他の一切の思い煩いは本来的に不要なのだ、ということなのです。人間の目から見て可能か不可能かということは問題にならないということです。それが既に永遠の命を与えられているということであり、既に神の子供とされているということなのです。
(祈り)