ヨハネの手紙一 4:7‐12
これまで度々グノーシスの異端について述べられてきました。グノーシスとは「知識」という意味です。彼らは神についての特別な知識(グノーシス)を持ち、神との特別な交わりが与えられていると主張していたのです。2章に「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:4)と書かれていました。そのように、彼らは「神を知っている」と主張していたのです。
既に申し上げましたように、彼らが言う知識、そして、その交わりは霊的なものであって、この物質世界に属するいかなるものによっても、決して妨げられることはないと考えられたわけです。この世の生活における倫理的な事柄を問題にするキリスト者は、彼らから見るならば、一段も二段も低いところにいたのです。
しかし、そのような異端の教えを背景に、ヨハネは教会に対して全く違うことを語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(7‐8節)。
「愛する」ということは、この物質世界の中で営まれる具体的な生活に関わっている言葉です。現に存在する隣人とどのように共に生きるのか、ということに関わっている言葉です。そのように具体的に愛して生きるということを欠いているならば、どんなに特異な神秘体験を持っていようが、どんなに特別な知識を持っていようが、どんなに霊的な神との交わりがあると主張しようが、その人は神を知らないのだ、とヨハネは言うのです。それはなぜでしょうか。彼は言います。「神は愛だからです」。
「神は愛です」とは教会で良く耳にする言葉です。しかし、よくよく考えてみると、これをどう理解するかということは、そう単純ではありません。神は本当に愛なのでしょうか。奇跡的に病気が癒されて「神は愛である」と感謝する人もいます。しかし、病気の癒しが「神は愛である」と語る根拠にならないことは明らかです。自分が経験してきた数々の幸運のゆえに「神は愛である」と言う人もいるでしょう。しかし、その人が不運に見舞われるならば、「神は愛である」と言っていた舌をもって神を呪うことになるかもしれません。
「神は愛である」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないことは明らかです。なぜなら、この世に満ちている理不尽な出来事、私たちもしばしば経験するこの世の不条理やそれに伴うやり場のない悲しみや怒りは、「神は愛である」という言葉と激しく対立するからです。考えてみてください。ヨハネは悲しみや痛みとは無縁の、平和で幸いに満ちた生活をしていたから、このようなことを書いているのではないのです。迫害の中にあった教会にとって、理不尽な苦しみや悲しみは、むしろ身近な日常の経験だったのです。そして何よりも、ヨハネは最も理不尽な出来事を知っているのです。すなわちイエス様がどれほど惨たらしい仕方で殺されたかを知っているのです。
「パッション」という映画をご存じでしょう。目を覆いたくなるような残酷なシーンが続きます。しかし私は、あの映画において、残酷さが殊更に強調されているとは思いません。実際に起こっていたことは、もっと残酷であったに違いないとさえ思います。鞭で打たれて飛び散った血と肉によって真っ赤に染まった敷石の上をキリストが引きずられていく場面と「神は愛である」という言葉は結びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。そうです、ヨハネはこの世界の中に起こっていることが、まさにそのような事であることを重々承知の上で書いているのです。ですから、「神は愛である」という言葉は、単純にこの世界の一般的な経験の中からは出てきた言葉ではないのです。
ではどこからでしょうか。実は、10節は「ここに愛があります」という言葉で始まるのです。日本語とは順序が逆になります。「ここに愛がある」――どこに?ヨハネはこう言っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。これこそがヨハネの見つめている一点なのです。
ここで重要なのは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」という言葉です。これは旧約の背景を持った言葉です。その言葉が前提としているのは、「罪の赦しを必要としているわたしたちである」ということです。ヨハネは、自分の罪、そして全世界の罪について考えているのです。そして聖なる神と罪深い人間を隔てる、越えがたい深淵を見ているのです。
自分自身の罪と深刻に向き合うことがないならば、人はいくらでも神に近づくことができると考えることでしょう。自分が近づこうと思いさえすれば、神に近づくことができると思うのです。人間の努力によって、修練によって、積み重ねた善行によって、あるいは瞑想によって、神秘体験によって、いくらでも神に近づき、神に触れ、神と一つになることさえできると考えるものです。そして、そのような神と一つになる体験を得るために、酒や薬物の助けを借りるということも、人間が昔からしてきたことです。
しかし、私たちが真に光の中に身を置くならば、どうしても私たち自身の罪が問題となるのです。神と人とを隔てる深淵が問題となるのです。いったいその深淵に橋渡しはなされ得るのかが問題となるのです。そこで少なくとも一つ明らかなことは、人間の側から橋はかけられない、ということです。この断絶は人間の罪の故の断絶だからです。神の方から橋をかけてくださるしかない。そして、神はそうしてくださったのです。御子が肉を取って来られた。受肉です。そして、その肉をもって罪を贖ってくださった。贖罪です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
このキリストの出来事に目を向けつつ、ヨハネは「神は愛である」と語っているのです。「神を知る」ということは、そのように十字架において御自身の愛を示された神を知ることに他なりません。それはすなわち、自分に与えられている神との交わりは、百パーセント神の愛に負っていることを知ることに他ならないのです。要するに、私たちは神さまに借りがあるということです。こうして私たちは当たり前のように神に祈るために集まっているのですが、その私たちは本来神さまに対して莫大な愛の借りがあるのです。
「神は愛です」。その愛なる神を知るならば、その一生は当然のことながら、神に愛をお返ししていく一生となるはずです。もとより返せるような負い目ではありません。そのような私たちのせめてもの恩返しの一生です。しかし、そのように神に愛をお返ししようとする時に、神は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。ヨハネはそのことを次のように表現しています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。
「愛し合うべきです」という表現は、「愛することを負っている」というのが直訳です。負債がある、ということです。負っているのは神に対してですが、返すのは隣人に対してです。それは神が大きな橋を自らかけてくださったように、私たち自身も小さな橋をかけることを意味するのかもしれません。その場合、神の方から御赦しをもって橋をかけてくださることが神の愛であったのですから、私たちが誰かを愛するということは、私たちの側から橋をかけることを意味するのでしょう。こちらから橋をかけなくてはならない人は誰ですか。
いずれにせよ、神を知るということは、そのように必然的に私たちが互いに愛し合うという形を取るのです。それゆえに、このように書かれていたのです。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」