2023年1月25日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:4~10

ヨハネの手紙一 3:4‐10

 前回お読みした3章1節には、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)と書かれていました。私たちは改めて、その愛がどれほどであるかを考える時間をいただきました。

 御父は私たちを愛していてくださいます。それは私たちを神の子と呼んでくださるほどです。いや、呼んでくださるだけでなく、事実、神の子にしてくださったのです。どのようにしてですか。御子をお遣わしくださることによってです。御子に肉を取らせ、私たちのための罪の贖いの犠牲とすることによってです。後に4章において次のような御言葉を聞くことになります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。この愛によって、私たちは神の子とされました。

 ヨハネによって勧められているように、これがどれほど大きな愛であるか、私たちはよく考えなくてはなりません。そして、その愛の内にとどまるのです。神の愛そのものであられる御子の内にとどまるのです。御子の内にあってこそ、私たちは神の子なのですから。「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(2:27)と語られていましたでしょう。

 そのように、私たちは御子の内にあって、既に神の子です。しかし、神の子であるという事実はまだ現れていません。私たちが本当に神の子の姿となるのは将来においてです。それは私たちの想像を超える出来事です。しかし、一つだけはっきりしていることがある。「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(2節)と書かれていました。

 御子に似た者となるとは、どういうことでしょう。今日お読みしたところには、御子についてこう書かれています。「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)。これが御子です。ですから、私たちがやがて御子に似た者になるということは、《罪のない御子》に似た者になるということです。私たちもまた罪のない者になるということです。ですから御子は自分が罪のない御方であるだけでなく、「罪を除くために」来られたのです。

 さて、そのように先週お読みしたところと今週の箇所は続いているのですが、実は今日お読みした箇所は少々読みにくいのです。ここを読むためには、ちょっとしたコツがいるのです。それは「罪を犯す者」と「義を行う者」を○で囲むなり、しるしをつけるなりして、これに注目しておくことなのです。「罪を犯す者」は4節、6節、8節に出て来ます。(厳密には6節は若干異なる表現ですが、同じ意味です。)「義を行う者」は7節に出て来ますし、先週読んだ2章29節にも出て来たのです。

 結論から言いますと、「罪を犯す者」とは反キリストと呼ばれていた、異端を奉じる人々のことで、「義を行う者」は教えられたとおり御子にとどまる者のことなのです。そのことを理解しておきませんと、例えば7節などは同語反復の奇妙な表現としか見えないでしょう。

 以前話したことを思い起こしていただきたいのですが、異端の人たちは、自分たちが肉体から解放された霊の人であると主張していたのです。それゆえに肉体をもって何をしても重要なことではなく、肉体が罪を犯しても決して害を受けることはないと主張していたのです。そして、実際に罪を正当化しながら放縦に身を任せていたのです。それゆえにヨハネは彼らを「罪を犯す者」と呼んでいるのです。それに対比させて、御子に留まるキリスト者を「義を行う者」と呼んでいるのです。そして、その「義を行う者」と「罪を犯す者」との対比が、さらには「神の子たち」と「悪魔の子たち」の対比として語られているのです。

 さて、ここで「義を行う者」すなわち、御子の内にとどまるキリスト者について何が言われているかを見ていきましょう。今日の箇所で「御子の内にいつもいる人(御子の内に留まっている人)」「義を行う者」「神から生まれた人」をすべて「クリスチャン」と言い換えてみたらどうなりますでしょうか。「クリスチャンは罪を犯しません」(6節)。「クリスチャンは、御子と同じように、正しい人です」(7節)。「クリスチャンは皆、罪を犯しません。クリスチャンは、罪を犯すことができません」(9節)。

 さて、どう思いますか。「え、それならわたしはクリスチャンではありえない。偽物クリスチャンだ」と思って落ち込む人がいるかもしれません。あるいはヨハネに反論しようとするかもしれません。「そんな罪を犯さないクリスチャンなんているものか。ヨハネ自身も1章で言っているではないか。『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません』と」。

 しかし、私たちはここで、前回書かれていたことをもう一度思い起こす必要があります。2節には、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と書かれていました。明らかにヨハネは、「あなたたちは自分が神の子であるか、省みてみなさい。もしかしたら悪魔の子かもしれませんよ」という意図でこれを書いているのではないのです。御子の内にあるならば、私たちは既に神の子なのです。まだその現実が完全に現れていないけれど、とにかく神の子なのです。2節以下に書かれていたとおりです。

 そして、神の子であるということは、罪がないということなのです。御子は罪を取り除くために来られたのですから。悪魔の働きを滅ぼすために来られたのですから。神の子は罪を犯さないのです。神から生まれたのですから、罪を犯すことなどできないのです。――では罪を犯してしまう私たちは何なのか。当然その問いが生じてくるでしょう。罪を犯してしまう私たちは、本来の私たちではない、ということなのです。それは神の子であるという事実が、現れていないということなのです。そして、これは今の自分自身をどう見るかということに関わる重大な事柄なのです。

 わたしはかつてクリスチャンとしての自分は偽りの姿であると思っていた時期がありました。教会にいる時のわたし。他のクリスチャンと共にいる時のわたし。礼拝している時、祈っている時のわたし。それは全部、いい子ぶりっこしている偽物のわたしで、本当のわたしは悪くて狡くて罪ばかり犯していて、心の中で汚いことを考えているわたし。誰も知らないけれど、こちらが本当のわたしなのだ。クリスチャンとしてのわたしは演技に過ぎないのだ。――と、そう思っていた時期がありました。皆さんは、そのように思ってしまったことは、ありませんか。

 しかし、実はそうではないのです。私たちは確かに神から生まれたのです。既に今、神の子なのです。だから祈るのです。だから礼拝するのです。だから罪に対して心を痛めるのです。神を喜び、神に喜ばれることを願っている方の自分。罪を悲しんでいる方の自分。それが本当の自分なのです。神の子は罪を犯さない。そちらが本当の自分なのです。どうしてそう言えますか。そちらの方が残るからです。永遠に残るのはそちらの方だからです。やがて御子が現れる時、御子に似た者になるのでしょう。罪のない御子に似た者になるのでしょう。そちらが本当のわたしであり、本当のあなたなのです。

 実際、罪を犯す方が本来の自分であると思って、その罪深さを正当化するために、異端の教えの方に流れていく誘惑は常にあったのです。そうです。罪がある方を本来とするならば、必ずそれを正当化するようになるでしょう。暗闇の中に留まることになるでしょう。そうあってはならないのです。

 皆さん、私たちは御子の内にあるならば、既に神の子です。どれほど大きな愛によって愛されて神の子とされたのか、もう一度思い起こしましょう。私たちは神の子です。そして、私たちはさらに言わなくてはなりません。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」それが本当のわたしたちです。やがてその事実が完全に現れる時が来るのです。
 

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