2023年2月1日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:11~18

ヨハネの手紙一 3:11‐18

 これまで読んできたことを思い起こしてください。私たちは「今既に神の子である」(2節)と書かれていました。もちろん神の子であることが完全に現れ、御子に似た者となるのは将来のことですが、それでも事実として今既に神の子なのです。それと同じように、私たちは既に「死から命へと移った」(14節)と聖書は語ります。もちろん永遠の命に完全に与るのは将来のことですが、私たちは既に命に移された者としてこの永遠の命を経験し始めるのです。

 では、どこにおいて死から命に移されたという事実を経験するのでしょう。どこにおいて永遠の命を味わうのでしょう。14節にはこう書かれています。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(14節)。このように、永遠の命は愛することにおいて経験されるのです。永遠の命の経験は、互いに愛し合う交わりの中にあるのです。

 さて、このことは、私たちの救いの完成についても、大切なことを教えています。救いが完成するということは単に私たちが個人として完成することではないのです。交わりが完成することなのです。それは神との交わりであると同時に隣人との交わりです。永遠の命は、そのような愛の交わりの中にあるのです。

 そもそも命の源である神御自身が、その内に愛の交わりを持っているのだと、私たちは教えられております。神が三位一体の神であるとはそういうことです。神は本質的に愛の交わりを持っているのです。人間はこの神の似姿として造られました。ですから、救いの完成である永遠の命は、愛の交わりの中にこそあるのです。

 そして、そのような永遠の命を、私たちはこの地上における不完全な愛の交わりの中においても、既に経験し始めるのです。しかし、全く逆のことも起こり得ます。人が愛において永遠の命を経験するように、人は憎しみにおいて死を経験するのです。続けてヨハネが次のように語っているとおりです。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(14節後半‐15節)。

 「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とは実に激しい言葉です。ヨハネは、憎しみというものがいかに命から遠いかを良く知っているゆえに、このような激しい言い方をしているのでしょう。誰かについて「こんな人はいない方が良い」と考えているならば、単に心の中で憎んでいる人であっても、実際に人を殺す人であっても変わりません。その思いそのものが、永遠の命とは対極にあるからです。人を憎んでいる時、そして憎んでいる自分を正当化している時、その人は生物学的に生きていたとしても、経験しているのは永遠の死そのものなのです。

 では人はいかにして憎む者ではなく、愛する者となるのでしょう。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからだ」と言っていますが、その愛も命も、もともとヨハネが持っていたものではありません。その愛は与えられた愛なのです。愛は愛を通してのみ与えられます。愛されて、愛を知らされて、愛する者とされるのです。ですから、その後に「愛を知った」という話が出て来るのです。

 ヨハネはどこにおいて愛を知ったのでしょうか。16節は、原文では「ここにおいて愛を知った」という言葉から始まります。彼はひたすらに、ただ一点を指し示すのです。「ここなのだ」と。その指の先にはキリストがおられるのです。彼は言います。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」(16節)。彼が指し示すその指の先には、十字架にかけられているキリストがおられるのです。十字架においてこそ、私たちは愛されていることを知るのです。それ以外のところではありません。

 キリストが命を捨てるほどに私たちを愛してくださった。その愛によって私たちは死から命に移されたのです。ですから、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」で終わらないのです。当然、その先があるのです。何と書かれていますか。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)。

 では「兄弟のために命を捨てる」とはどういうことでしょうか。誰かの身代わりになって死ぬことでしょう。いいえそうではありません。ヨハネはすぐにこれを身近な具体的な事柄に置き換えて語り直します。彼はこう言うのです。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(17‐18節)。

 そのように、「兄弟のために命を捨てる」と言いましても、何もそこで死に方を考える必要はないのです。結局そこにあるのは、《この命をどう用いるのか。この地上の生をどう用いるのか》という問題だからです。そして、《この命をどう用いるのか》と言いましても、何も大きなことを考える必要はないのです。皆がインドのカルカッタに行ってマザー・テレサのようになる必要はないのです。兄弟は身近にいるからです。重要なのは、ごく当たり前の日常のことであり、そこで私たちがこの地上の生活と、生活に関わるすべてのモノを身近な兄弟のためにどう用いるか、ということなのです。

 このヨハネの言葉の背景にあるのは、富める者が貧しい者を支えることによって成り立っていた、当時の教会の状況です。使徒言行録を読みますと、そこには皆が持っているものを使徒たちのもとに集め、それが必要に応じて分配されるという、初期の教会の姿が描かれています。そもそも、「主の晩餐」がそのように行われていたのです。初めの頃の教会においては、「主の晩餐」と通常の食事(愛餐)の区別は必ずしも明確ではありませんでした。そこでは食べ物を提供することのできる者がそれぞれ持ち寄り、それが神に奉献され、分かち合われて食事がなされたのです。そこでは貧しい者も食べることができました。富める者も貧しい者も皆が食事をする――そこに愛し合う者たちによって捧げられる、主の食卓を囲む礼拝があったのです。

 さて、今日の私たちは持ち寄った食べ物によって聖餐を行うわけではありません。しかし、かつて行われていたことは、形を変えて残っております。何でしょう。献金です。私たちは礼拝において献金をいたします。教会員であれば月次献金を献げます。これはもちろん神に献げるから「献金」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、私たちの献金によって教会のすべての営みは支えられています。すなわち、私たちの献げ物は、他の誰かの信仰生活を支えているのだ、ということです。「兄弟のために命を捨てる」ということは、そのように私たちの「献金」においても起こるのであり、そこにおいても私たちは永遠の命を経験するのです。

 また、それは私たちの奉仕においても起こることです。「この世の富」は、今日の私たちにとって、必ずしもお金とは限りません。私たちの持っている能力であるかもしれませんし、時間であるかもしれません。それを互いのために差し出すことにおいて、「兄弟のために命を捨てる」ということは起こります。互いに愛し合うという具体的な経験なのであり、それはすなわち永遠の命の経験に他ならないのです。
 繰り返しますが、この「兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉は、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」という言葉に続いています。その前提と切り離すことはできません。ですから、何よりも大事なことは、ヨハネがひたすら指し示しているその方向に私たちの目を向け、「わたしたちは愛を知りました」と言い表して生きる者となることなのです。

(祈り)

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