ヨハネの手紙一 4:1‐6
これまで度々グノーシスという異端の話が出て来ましたが、そもそもどうして当時の教会の中にそれほどこの異端が広まったのでしょう。一つには、その背景となっている哲学的な思想体系が知的な人々の欲求を十分に満足させるだけの内容を持っていたということが理由として挙げられます。異端の教師たちはある意味では当時の哲学的な思想に精通していた人々でありましたから、その教えの前には、教会が伝えてきた受肉や贖罪の思想があまりにも素朴で単純に思えたことでしょう。正統的な信仰に留まっている信者は時代に取り残されているかのように感じたかもしれません。
しかし、それでもなお知的な魅力だけでは、それほど教会の中に異端が広がることはなかっただろうと思うのです。ではなぜ広がったのか。そこには感覚に訴えるものがあったからです。つまり異端の教えには神秘的な現象や霊的な体験が伴っていたということです。肉体という牢獄から解放されるという教えには、実際に肉体から解放されるような恍惚感の体験が伴っていたのでしょう。そのような霊的な体験や現象というものに教会は弱いのです。不思議なことが起これば、それは神から来ていると思ってしまう。神秘的な体験が伴うところで語られることは無条件で真理であると単純に思ってしまうものなのです。
だからこそ、ヨハネはこう語っているのです。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(1節)。神秘的な現象が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な体験が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な力を行使して奇跡を行うような人が語る言葉が、必ずしも神からの言葉とは限らない。そういうことです。そこで語られる言葉は吟味されなくてはならないのです。私たちは神から出たものかどうかを確かめなくてはならない。きちんと判断しなくてはならないのです。
ではどのように判断したら良いのでしょう。ヨハネはこう言うのです。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(2節)。
ここで問題となっているのはキリストの「受肉」を信じる信仰です。そして、キリストが肉を取って来られたのは、十字架にかかって罪の贖いをするためですから、「受肉」を信じる信仰は、「贖罪」を信じる信仰と不可分の関係にあります。ですから、ここでは「受肉」についてだけ語っていますが、4章のこの後の部分では「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)と語られているのです。要するに、判断の基準は「受肉」と「贖罪」を信じる信仰を告白しているか否かです。ということは、人間の罪の問題ときちんと向き合っているということです。言い換えるならば、罪の問題が隠れてしまう暗闇の中を歩いているのではなく、光の中を歩いているということです。
以前も申し上げましたように、グノーシスの異端は受肉と贖罪を否定していました。御子なる神が肉体を取って十字架にかかって死なれたということを否定していたのです。彼らは否定することができたのです。贖罪を否定することは問題にならなかったのです。なぜなら罪そのものの重大さを認めていなかったからです。罪の贖いがなくても、体から解放されるような神秘体験を得ていれば、もうそれで神の結ばれているように思えたし、救われているようにも思えたのです。だからいくら肉体が罪を犯していても、もはや問題にはならなかったのです。肉体をもって憎み合っていても、問題にはならなかったのです。受肉したキリストがかかられた十字架がなくてもやっていけたのです。
十字架なしでもやっていけるように思わせてしまう神秘体験が、実はどれほど恐るべきものであるか考えてみてください。十字架抜きで、神秘体験そのもので神と結ばれているように思ってしまったら、もはや罪の悔い改めはあり得ないでしょう。罪が明らかにされる光の中に身を置く必要も感じないでしょう。自分は恍惚感の中にあって神と結ばれているように思いながら、実際には行動としては神の律法に背き続け、罪の負債を抱えたままで、もはや神の赦しも憐れみも求めることができない者となってしまう。それは恐ろしいことでしょう。そのような霊的体験は、まさにキリストに逆らうものではありませんか。キリストが来られた目的と真っ向から対立するものではありませんか。ですから、「反キリストの霊です」とまで言われているのです。
判断基準は受肉と贖罪です。キリストの十字架です。ここから引き離すものは、すべてキリストに逆らっているのであり、反キリストです。聖書は、様々な霊的な現象や霊的な体験があることを否定していません。それは霊的な体験について「それは脳内物質の分泌の問題である」とか、奇跡を目撃した時に「これは偶然が重なっただけである」といった仕方で合理的に説明する必要はありません。合理的な説明を超えたことは起こるのです。占いの類は確かに当たるのであり、だからこそ古代から絶え間なく行われてきたのです。奇跡的な癒しは起こるのです。それもまた古代から人間が目撃してきたことなのです。今日でもいくらでも起こっていることです。ですから今日でも奇跡を売り物にするYoutuberは存在しますし、その手の書物は枚挙にいとまがないほどです。しかし、それは必ずしも神からのものではなく、往々にしてそれは反キリストの霊であるということを私たちは忘れてはならないのです。
特に、人々が喜んでいる時には、そのことをよく考えなくてはなりません。誰かが奇跡的に癒されて喜んでいたら、単純にそれは良いことだと思うわけでしょう。未来予知の能力を持つ人が誰かの人生についてアドバイスすることによって、その人が安心を得たり、悩みが解決していったりしたら、それは良いことだと思うわけでしょう。グノーシスの異端にしても、必ずしも不道徳の種を撒き散らしていただけではなくて、人々に幸福感を与えたり、喜びを与えたり、悩みの解決を与えたりしていたのだろうと思うのです。しかし、それでもなお、もしそれで人が罪の悔い改めから遠ざけられたり、十字架による救いから遠ざけられたりするならば、それはまさに恐るべき反キリストの霊の業に他ならないのです。
そうしますと、教会における戦いというものは、まさにこの反キリストの霊との霊的な戦いであることが分かります。外からの迫害についても、本当は迫害者そのものが敵なのではなく、人間そのものと戦ってはならないのと同じように、異端の問題にしても異端の教師たちやその追従者が敵なのではなく、そこにおいても人間そのものに憎しみを向けたり戦ったりしてはならないのです。反キリストの霊との戦いなのです。
ところで、この霊的な戦いということについて、ヨハネの手紙を読んでいるこの教会はどのように感じていたのでしょうか。グノーシスの異端の方が実は外に対する伝道も進んでいたのです。ギリシアの文化圏の人にとっては、グノーシスの異端の方がはるかに受け入れやすかった。また世の人々にとりましても感覚に訴える体験的な内容も魅力であったに違いありません。ですから正統的な信仰を保とうとしている人たちは、自分たちがかなり劣勢にあると感じていたのではないでしょうか。私たちも、グノーシスの異端ではありませんが、この世に働いている、キリストから引き離そうとする諸々の力に対して、教会は極めて劣勢であるかのように感じることがあるかもしれません。
しかし、ヨハネは言うのです。「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(4節)。「世にいる者」とは悪魔のことです。神の方が悪魔よりも強い。当たり前のことです。それゆえに、もう既に教会は異端に勝っている、とヨハネは言うのです。実際どうですか。グノーシスの異端は歴史から消えていきました。私たちは心配しなくてはよいのです。ただ必要なことは、きちんと見分けることです。