ヨハネの手紙一 3:1‐10
事実、神の子です
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)。そのように語られていました。この直前には「御子の現れるとき」「御子が来られるとき」のことが語られています。今日読まれた2節にも「御子が現れるとき」という言葉が出てきます。そのようにヨハネはキリストの再臨を念頭に置いて語っています。しかし、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」というのは未来の話ではありません。御子が現れるときのことではありません。御父は既に愛していてくださっているのです。2年前に出された聖書協会共同訳という新しい翻訳では次のように訳されています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです」。
私たちはよく考えてみる必要があります。私たちはこうして当たり前のように集まって「天にまします我等の父よ」と祈ります。礼拝堂に集まれる時も、集まれない時にも、神の子どもたちとして、共に御前に出て礼拝をささげているのです。このために、どれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい」とヨハネは言っているのです。
「どれほどの愛を私たちにお与えくださったか」――神の愛は具体的な形を取りました。それはキリストです。御子をお遣わしくださったということです。それはこの後の4章10節にはっきりと書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、よく考えなくてはなりません。「それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。
「事実また、そのとおり」とは「事実、神の子だ」ということです。しかし、神の子であるという事実はまだ現れていません。私たちが本当に神の子の姿となるのは将来においてです。最終的な救いの時においてです。それは私たちの想像を超える出来事です。ですからヨハネも、「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と言うのです。分からないということです。しかし、分かっていることもあります。「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。
御子に似た者となるとは、どういうことでしょう。今日お読みしたところには、御子についてこう書かれています。「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)。これが御子です。ですから、私たちがやがて御子に似た者になるということは、罪のない御子に似た者になるということです。私たちもまた罪のない者になるということです。ですから御子は自分が罪のない御方であるだけでなく、「罪を除くために」来てくださったのです。
そこに私たちの希望があります。それゆえにこのように続くのです。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3節)。自分を清め、清い者となったから神の子になれるのではないのです。神の愛によって既に神の子なのです。やがて罪のない御子に似た者とされるのです。だからこそ、不完全ながらも清さを求める信仰者の願いや営みも意味を持つのです。
罪を犯す者
さて、このようにヨハネが語るのには、深い理由がありました。それは当時の教会に入り込んでいた異端の教えを奉じる人々の問題です。その異端は後に「グノーシス」と呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになりました。彼らはキリストが肉となって来られたこと――キリストの受肉――を否定する人たちでした。キリストが私たちと同じ体を持った人間となられたことを否定するのですから、当然のことながら、その体をもって成し遂げられた罪の贖いも信じません。というよりも、そもそも罪の贖いを必要としていなかったのです。
彼らはこの目に見える体も、この物質世界も本質的に無価値で無意味であると考える人たちでした。ですから、その体が物質世界において何を行うかは本質的に何の意味もないのです。この体が悪を行おうが善を行おうが、それはどうでもよいことなのです。この世において、現実のこの体をもって、他の人とどのようなかかわりに生きるか、この世界とどのようなかかわりに生きるかということも問題にはなりません。ですから、自らの罪を悔いることもなければ、神に赦しを願い求めることもありません。魂の牢獄である体から自分の魂が解放されることこそが救いなのです。
このような思想が罪の問題と向き合う感覚を麻痺させることは火を見るより明らかでしょう。その体をもって何を行っても、「自分には罪がない」と言い続けるわけですから。しかし、だからこそヨハネはこう続けるのです。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」。
この「法」とは神の律法のことです。それはただユダヤ人に与えられた律法だけでなく、異邦人の心にも記されている神の要求です。それは究極においては「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法をも意味すると考えてよいでしょう。彼らがどんなに「自分には罪がない」「わたしの体が何を行おうとも罪ではない」と主張しようが、現実に不法を行っているのです。神の法に背くことを行っているのです。「罪を犯す者」ということでヨハネが念頭に置いているのは、そのような人々のことです。どんなに「罪はない」と主張しようが、ヨハネは彼らを「罪を犯す者」と呼ぶのです。
神から生まれた人は皆、罪を犯しません
それに対して、「義を行う者」についてヨハネは語ります。それは異端の教えに惑わされることなく、伝えられた信仰にとどまった人たちです。彼らは6節においては「御子の内にいつもいる人(御子の内にとどまる人)」と表現されています。また、9節においては「神から生まれた人」と表現されています。
ところで、この箇所において「御子の内にいつもいる人」「義を行う者」「神から生まれた人」をすべて「クリスチャン」と言い換えてみたらどうなるでしょう。――「クリスチャンは罪を犯しません」(6節)。「クリスチャンは、御子と同じように、正しい人です」(7節)。「クリスチャンは皆、罪を犯しません。クリスチャンは、罪を犯すことができません」(9節)。どう思われますか。自信をもって全面的に同意できる人はどのくらいいるでしょうか。
一方において、「それならわたしはクリスチャンとは言えない。偽物クリスチャンだ」と言って落ち込む人がいるかもしれません。もう一方において、ヨハネに反論しようとする人がいるかもしれません。「罪を犯さないクリスチャンなどいるものか。パウロも言っているではないか。『正しい者はいない、ひとりもいない』と。」実際、ヨハネ自身も1章で「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1:8-9)と語っています。一見すると、今日お読みした箇所と矛盾するように見えなくもありません。
しかし、だからこそ今日最初に読んだ部分が重要になってくるのです。もう一度お読みします。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。
ヨハネはここで、「あなたたちは神の子ですか。悪魔の子ですか。自分自身を振り返って考えてみなさい」という意図でこれを書いているのではないのです。「事実、私たちは神の子どもなのです」と言っているのです。既に神の子なのです。まだその現実が完全に現れていないけれど、とにかく神の子なのです。
そして、神の子であるということは、罪がないということなのです。御子は罪を取り除くために来られたのですから。悪魔の働きを滅ぼすために来られたのですから。神の子は罪を犯さないのです。神から生まれたのですから、罪を犯すことなどできないのです。では罪を犯してしまう時の私たちは何なのか。当然その問いが生じてくるでしょう。――罪を犯してしまう私たちは、本来の私たちではないということなのです。それは神の子の本来の姿がまだ現れていないということなのです。
わたしはかつて、キリスト者としての自分は偽りの姿であるという思いにひどく苦しんだ時がありました。教会にいる時のわたし。他のキリスト者と共にいる時のわたし。礼拝している時、祈っている時のわたし。それは全部、いわば《いい子ぶりっこ》している偽物のわたしで、本当のわたしは悪くて狡くて罪を犯し、心の中で汚いことを考えているわたし。誰も知らないけれど、こちらが本当のわたしなんだ。わたしはキリスト者を演じているだけなんだ。――そのような思いを拭い去ることができなかったのです。
しかし、聖書的に見るならば、それは間違いなのです。私たちは確かに神から生まれたのです。既に今、神の子なのです。だから祈るのです。だから礼拝するのです。だから罪に対して心を痛めるのです。神を喜び、神に喜ばれることを願っている方の自分。罪を悲しんでいる方の自分。それが本当の自分なのです。神の子は罪を犯さない。そちらが本当の自分なのです。どうしてそう言えると思いますか。そちらが最終的に残るからです。永遠に残るのはそちらの方だからです。やがて御子が現れる時、御子に似た者になるのでしょう。罪のない御子に似た者になるのでしょう。ならば、そちらが本当のわたしでありあなたなのです。
実際、罪を犯す方が本来の自分であると考えるならば、絶望するか、罪を犯す自分を正当化するしかないでしょう。罪の問題と向き合わないために暗闇に身を置くしかないのです。そのために、異端の教えの方に流れていく誘惑は常にあったのです。そうです。罪がある方を本来とするならば、罪から目を背けるしかありません。暗闇の中に留まるしかありません。しかし、そこに本当の救いはないのです。
皆さん、私たちは御子の内にあるならば、既に神の子です。どれほど大きな愛によって愛されて神の子とされたのか、もう一度思い起こしましょう。私たちは神の子です。そして、私たちはさらに言わなくてはなりません。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」それが本当のわたしたちです。やがてその事実が完全に現れる時が来るのです。だからこそ、私たちは光の中に身を置き、赦しを求め、悔い改めて新たに歩みだすことを大切にするのです。今はレント、恵みとして与えられている悔い改めの時です。
(祈り)