2023年1月18日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:28~3:3

ヨハネの手紙一 2:28‐3:3

 全回お読みしたところには、「子供たちよ、終わりの時が来ています」(18節)と書かれていました。今日お読みした28節では、その「終わりの時」が「御子の現れるとき」また「御子が来られるとき」と言い換えられています。2節にも「御子が現れるとき」と書かれています。

 全回も触れましたように、この手紙が書かれたのは紀元一世紀の終わり頃でありまして、キリストの再臨が語られ初めて既に六十年以上経っている頃です。六十年何も起こらなかったにもかかわらず「御子が現れるとき」についてなお語り続けているのです。そのように、教会はこの二千年間、常にキリストの再臨について語り続けてきたのです。今がその時であるという意識をもって語り続けてきたのです。ヤコブは主が戸口に立っているというイメージで語っていました。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」(ヤコブ5:9)。このイメージを私たちも持ち続けることが大事なのでしょう。

 そこで重要なことは、御子の内に留まるということなのです。「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」(28節)。その直前にも「だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」と語られていました。「教えられたとおり」と語られていたのは、先週見たとおり、彼らが異端の教えによって揺さぶられていたからです。当時のギリシャの哲学的な思想に基づくグノーシスの異端の新しい教えによって揺さぶられていた。しかし、ひるんではならないのです。伝えられている福音について自信を失ってはならないのです。彼らは教えられたとおり御子の内にとどまらなくてはならなかったのです。すなわち、御子が肉体を取って来られたこと、そしてその肉体をもって十字架にかかり罪を贖ってくださったこと、その福音の真理にとどまらなくてはならなかったのです。

 それは今日の私たちにおいても同じです。御子の内にとどまらなくてはなりません。ただ「わたしは神さまを信じています」というキリスト者であってはなりません。そのようなことはグノーシスの異端の人たちだって信じていたのです。それどころか彼らの方が真の神認識を持っていると主張していたのです。私たちはあくまでも御子にこだわらなくてはならないのです。イエス・キリストにおける贖罪の信仰にとどまらなくてはならない。そのようにしてまた、御子との交わりの中にとどまらなくてはならないのです。そのことによってのみ、はじめて「御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」と言えるからです。

 神は侮られる御方ではありません。グノーシスの異端の人々のように、罪の問題を横に置いたまま、いくら神を知っていると言っても、いくら神秘的な体験を主張したとしても、すべてが明らかになる時が来るでしょう。キリストが来られる時、そこにおいて正しい裁きが行われるのです。どのような仕方において罪が罪でないと主張されようとも、罪の行いが正当化されようとも、すべてが明らかになる時が来るのです。その時にキリストの内にない人は災いです。いったいどのように自らを弁明するのでしょう。ただ恐れとおののきをもって正しい裁きを受けるしかないでしょう。それがここでいう「恥じ入る」ということです。

 もちろん、ヨハネは教会の人々がそうならないことを願って語っているのです。御子の内にとどまっている限り、その人にとって、「終わりの時」「御子が来られるとき」は恐るべき裁きのときではありません。救いの時です。

 ですから、ヨハネは彼らにこう語るのです。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(3:1)。ここで「どれほどわたしたちを愛してくださるか」とありますが、それはもちろん未来の話ではありません。御子が現れるときのことではありません。御父は既に愛していてくださっているのです。そのニュアンスは、むしろ以前の口語訳の方が伝わるかもしれません。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。

 私たちは神の子と呼ばれているのです。いや呼ばれているだけでなく、事実、神の子とされているのです。それはどう考えても当たり前のことではありません。これは神の愛によるのです。私たちの考えも及ばないほどの特別な神の愛によるのです。

 その愛は具体的な形を取りました。それがキリストです。御父が御子をお遣わしくださったということです。それは後に、4章9節以下においてはっきりと書かれています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9-10)。

 この御子の内にあるからこそ、私たちは神の子と呼ばれ得るし、事実、神の子であり得るのです。パウロもまた次のように語っているとおりです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:26‐27)。この神の愛そのものであるキリストの内にとどまることなくして、どうして神の子であり得ましょう。私たちはこの神の愛の大いなることを改めて考えなくてはなりません。

 そのように、私たちはキリストにあって神の子とされています。しかし、現に私たちの目に映っている私たち自身はまことに神の子らしくない。そうでしょう。しかし、既に救いにあずかって、事実、神の子とされているならば、その事実はかならず現れることになるのです。今の私たちが最終形態であるということはあり得ない。ではいったい私たちは最終的にどうなるのでしょう。――ヨハネは「わからない」と言います。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」(2節)。

 実際そうだと思うのです。最終的に私たちが完全に救われた状態、本当に神の子供として完全に父の愛に包まれている状態がどのようであるか、私たちの想像も及びません。だからこそ、ワクワクドキドキしながら待つのでしょう。

 しかし、一つだけははっきり分かることがあります。次のように書かれています。「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」そうです。私たちは御子にお会いするのです。信仰によって、昔の鏡に映った姿のようにおぼろに見ているのではなくて、はっきりと見るようになり、はっきりと知るようになるのです。そして、その御子のようになる。私たちは既に神の子なのですから。そこに私たちの希望があります。

 その希望に生きる神の子であるならば、当然、このように言うことができるでしょう。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3節)。既に神の子とされているならば、そして御子にお会いする時、御子の姿に変えられるその時に向かっているならば、そこに向かう生き方があるのです。それは御子を否定した異端からは決して出てこないものなのです。最初に語られていた「御子の内にいつもとどまる」ということは、決して観念的なことではありません。キリストの再臨に向かう具体的な生活の仕方を含むのです。

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