2022年7月6日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 5:12~20

 ヤコブの手紙 5:12‐20

 ヤコブの手紙も最後の部分にさしかかりました。今日まずお読みしたのは「誓いを立ててはなりません」という勧めです。これはご存じのようにイエス様の言葉から来ています(マタイ5:33以下)。ところが、教会においては、結婚式をはじめ、様々な式において実際には「誓約」が行われています。それはどうしてでしょうか。

 実は、私どもが教会において神様の御前で誓約をすることと、イエス様やヤコブが言っている「誓い」は全く別なものなのです。それを理解するためには、ユダヤ人社会において「誓い」が日常会話の中において多用されていたことを知っておく必要があります。

 天を指して誓う。地を指して誓う。あるいは自分の頭を指して誓うこともありました。もちろん「神にかけて誓う」と言う場合もあります。どうしてそうしなくてはならないのでしょう。自分の言っていることを信じてもらうためです。「本当ですよ」と主張するためです。しかし、そのように信じてもらうための「誓い」は、日頃から言動において信用されている人ならば不要なはずなのです。その人が「はい」と言ったら、本当にそうなんだな。その人が「いいえ」と言ったら、本当に「いいえ」という意味なのだな。そう思われている人には「誓い」は不要です。

 要するにここでヤコブは、そのような人になりなさいと言っているのです。「然り」は「然り」とする。つまり本当は「否」なのに「然り」と言うようなことはしない、ということです。それはただ単に対人関係の話ではありません。それは「(神の)裁きを受けないようにするため」だと言うのです。なぜなら、他の人はごまかせても、神様をごまかすことはできないからです。

 続いて13節以下には祈りについて書かれています。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。苦しみにしても、喜びにしても、まずは神様のところに正直に持って行くということです。

 苦しい時に、神様に向かって「苦しいです」と言うのです。その苦しみを神様の前に注ぎ出すことです。すると何が起こるのでしょう。苦しみによって人と神とが結びつくのです。それまでにないほどに深く結びつくのです。

 そのような祈りを、私たちは詩編の中に数多く見ることができます。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1‐2)。この人は、確かに深い淵の底にいるような経験をしているのでしょう。しかし、どんなに深い闇の中にいても、彼は神と共にいることを実感しているのです。しっかりとつながっている。そこに既に救いがあるのです。

 そして、喜びも同じです。人は喜びによっても、神と結びつくことができるのです。ただ喜ぶだけでなく、喜びの背後におられる神を讃美することによってです。そのようにして、この地上の一時的な出来事を通して人は永遠の世界に触れるのです。

 そのようにして、まず神のもとに持って行くということが起こると、人との関係も変わってくるのです。ここで取り上げられているのは、まず教会の長老との関係です。ここで「長老」というのは、今日の教会で言えば「役員」であるとも言えますし「牧師」を指すとも言えます。

 苦しみの具体的な一つの例は病気でしょう。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(14節)とヤコブは勧めます。具体的な病気という苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すのです。そのような関係における祈りについて、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」と書かれています。主が癒してくださる、ということです。

 ところで「癒し」とは何でしょう。それはいわば神の国の前味です。神の国を考えるならば、私たちはどんな病気であっても最終的には完全に癒されると言えます。神の国に病気はないのですから。それは完全に命の支配する世界であり、完全な癒しの世界です。その神の国を様々な形で部分的に味わいながら生きるのが信仰生活です。

 ですから、神の国の味わいを病気の癒しという形で体験することはあるのです。あるいは病気そのものは治らなかったとしても、神の国を味わいながら召されることもあるでしょう。それはまたもう一つの癒しの経験であると言えるのです。

 さらには、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と書かれています。全ての病気を罪と結びつけることは避けなくてはなりません。しかし、しばしば病気や様々な苦しみが罪に起因することは事実です。主は癒してくださるだけでなく、その背後にある罪をも赦してくださいます。そのように、苦しみの中で「誰かに祈ってもらう」時に、そこで永遠の世界に触れるということが起こるのです。

 そして、それは教会の長老との間に留まりません。本来は長老であるなしにかかわらず、信徒相互の関係がそのようなものであるはずなのです。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)とヤコブは言うのです。

 罪を告白し合うというのは、自分の最も暗い部分を明らかにすることであり、自分の弱さや惨めさをさらけ出すことでしょう。それを為しえるとするならば、その「お互い」が十字架のもとにある時だけです。私たちが自分の罪を告白して「お祈りしてください」と言えるとするならば、それぞれがイエス様に対して「わたしの罪を赦してください」と言う者であり、ただ主の恵みによって赦され救われたことを知る場合だけなのです。

 逆に言うならば、それこそが教会の交わりなのです。ただ親しい友人というだけならば、何も教会の中だけでなく外にもいるだろうと思うのです。しかし、教会にしかない関係があるのです。それは「お互いのために祈る」という関係です。自分の問題を口にして「祈ってください」と言える関係です。そのような関係を知らないならば、それは教会の交わりを知らないに等しいのです。それは本当にもったいない。実に残念なことです。

 そのように互いに祈る関係において人は神の国に触れることになります。この地上において神の御業を見るのです。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とヤコブは言います。その正しさとは、神との関係における正しさです。その意味においては、私たちは皆、イエス・キリストによって罪を贖われ、神との関係において義人とされているのではありませんか。神の国がこの地上に現れるための通路となるのは、何も特別な人ではありません。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」と書かれています。私たちがお互いのために祈る時、お互いが神の御業の現れるための通路となるのです。

 そして、教会の交わりは、互いに祈る関係であるだけでなく、互いの魂を心に懸ける関係でもあります。「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(19‐20節)。

 誰かが真理から迷い出たら、誰かが連れ戻すのです。お互いの魂の状態について、互いが無関心ではなく、いつも心に懸けている。そのような教会を主は求めておられます。迷い出た羊を追い求めているのは羊飼いなるキリストです。しかし、今日、キリストは私たち一人一人を通して、迷い出る魂を追い求め、連れ戻そうとしておられるのです。

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