ヤコブの手紙 3:13‐18
「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」(13節)。「知恵」と「分別」がイスラエルの伝統において、いかに重んじられてきたかは、たとえば旧約聖書のうち知恵文学と呼ばれる箴言やコヘレトの言葉、あるいはヨブ記などを読みますとよく分かります。そのように重んじられてきた知恵や分別が何であるかが、一番明確に表明されているのは、恐らくヨブ記28:28でしょう。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(ヨブ28:28)。
知恵と分別を持っているということは、要するに「わたしは分かっている」ということなのですが、何が分かっているか、また身につけているかと言えば、それは主を畏れ敬うことであり悪を遠ざけることなのです。言葉を加えて言うならば、「わたしは何が信仰的であり信仰的でないかが分かっている。何か神の望まれることであり、何が神の厭われることかが分かっている。わたしは何が悪であり、何が善であり、何を遠ざけ、何に親しんだらよいかが分かっている」ということです。
そのように分かっているということ、そのような知恵と分別を身につけるということは、イスラエルにおいては教育の大事なテーマでした。要するに、それが主を信じる者としての成長であるとも理解されていたのです。
そのような背景を持つユダヤ人キリスト者を念頭に置きながら、ヤコブは問うのです。「あなたがたの中で、知恵がある分別があるのはだれか」。これは知恵があり分別があると自負している人々がいることが前提とされた問いです。実際、ユダヤ人キリスト者に限らず、いつの時代のどこの教会においても、「わたしは分かっている」と自負している人たちはいるのです。もちろん、いなくては困ります。知恵と分別は大事なのですから。しかし、ヤコブはあえてその自負に対する吟味を求めるのです。「もし知恵があり分別があり、『わたしは分かっている』というならば、その事実を自らの良い生き方(直訳)によって示せ」というのです。
良い生き方の特徴は何か。それは「柔和な行い」に満ちていることです。これは「謙遜」とも訳される言葉です。「謙遜」は心の中に始まります。それが外に出て謙遜な行いになるのです。知恵があり分別が本当に天からのものであるならば、それはまず心の中に謙虚さ柔和さを生み出すはずだということです。
これは特にユダヤ人キリスト者にとっては、ある意味では身に染みて分かる言葉だったと思います。というのも、彼らはユダヤ人社会において、全く逆のことを経験してきたからです。確かに彼らはユダヤ人として、神を畏れ、律法を遵守し、何が悪であり何が善であるかの判断を大切にしてきたのです。しかしその一方で、律法を持たぬ異邦人を軽蔑し、汚れた犬のごとくに扱い、また同胞であるユダヤ人の中においても羊飼いなど「地の民」と呼ばれる人たちや徴税人たちを見下して生きてきたのです。
また、もともとは神を畏れるということが重要であったはずなのに、実際には他の人からの評価の方がはるかに重要であったのです。知恵と分別をきちんと身につけた立派なユダヤ人として見られることです。それは人との比較の問題ですから、いつでも妬みや利己心が入り込みます。利己心というのは「党派心」とも訳せる言葉です。ねたみと党派心。それが知恵と分別を重んじるユダヤ人社会の現実だったのです。
ですから、本当の知恵と分別を持っているならば、そこには謙遜さがあるはずだ。謙遜な行いに満ちた、良い生き方があるはずだ、とヤコブは言うのです。もしそこにねたみや党派心が渦巻いているならば、「わたしには分かっている」と思っているその人の知恵や分別は、天から来たのではない。それは地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものだ、と語られているのです。そのように、人間が「わたしには分かっている」と思う自負さえも悪魔は用いるのです。
実際に、それが悪魔から出たものであることが明らかにされた決定的な出来事があったではありませんか。イエス様の裁判を考えてみてください。福音書を読む時、私たちは外から見ています。ですから、そこに渦巻いているのは、ねたみと利己心や党派心であるということが良く分かります。しかし、その場にいる当の本人たちは「わたしはねたみによって行動しているのだ。党派心によって行動しているのだ」などとは思っていないのです。わたしは何が正しいか分かっている。何が悪であるかも分かっている。そう思っているのです。その判断によれば、このイエスという男は極悪人で、極めて不敬虔な神の冒涜者である。本気でそのように断罪し、イエスを十字架にかけたのです。
「ねたみや党派心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある」とヤコブは言います。その通りではありませんか。本当に分かっている人が多いならば、混乱や悪い行いなどないはずです。しかし、現実には「わたしには分かっている」と主張する人が多いところに混乱があるのです。悪い行いもあるのです。なぜヤコブがこれを書いているか分かりますでしょう。これはユダヤ人社会だけの話ではない。教会にも起こり得ることだからです。だから教会宛にこのことを書いているのです。
私たちは、もし「知恵と分別がある」と思っているならば、それを吟味しなくてはなりません。そこに柔和で謙遜な行いが伴っているか。柔和で謙遜な行いに満ちた良い生き方が伴っているか。自分が持っている知恵と分別は、悪魔からのものではないのか、と。そして私たちは、地上からの知恵、悪魔からの知恵ではなく、上からの知恵、神からの知恵を求めなくてはならないのです。そうしてこそ知恵を得て子どもが大人に成長していくように、上からのまことの知恵と分別を身につて、信仰者として成長することもできるのです。
自分が身につけているのは上からの知恵であるのか、それとも地上からのものなのか。17節以下には判断の基準が記されています。こうして吟味したらよいのです。まずそこに純真さが伴っているか。それは清さと純粋さがあるかということです。この世の知恵にはいつでも裏があるものです。表と裏を使い分ける人がしばしば知恵ある者と見なされる。しかし、そのような知恵ではなく、本当に透き通った純真さに近づいていく。それが上からの知恵です。この世から見れば愚かに見えるかもしれません。しかし、それが本当に神を畏れるということなのでしょう。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で・・・」とヤコブは言うのです。
そして、「更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています」とヤコブは続けます。温和であるとは無闇に争わず、むしろ平和をもたらすものであるということです。「優しく」が意味しているのは「寛容である」ということ。「従順」は「温順」とも訳され、頑固でないことです。異なった意見にも耳を傾け、自分自身を柔軟に変えることもできる、ということです。知恵があり分別があると自負していると、ともすると他者と争いやすくなる。異なる考えを持つ人に対して不寛容になる。そして、他人の言葉に決して耳を傾けようとしない凝り固まった頑固な人間になる。それは起こり得ることではありませんか。しかし、それが上から来た知恵ならば、そうはならないはずだとヤコブは言うのです。
次いで「偏見はなく、偽善的でもありません」と書いています。実際には、自分は分かっていると思っている人が、実際には極めて偏見に満ち、偽善的であるということが起こり得るということでしょう。もしそうならば、そこにあるのは地上からの知恵、悪魔からの知恵なのであって、上からの知恵ではないと語られているのです。
私たちが知恵と分別を得て成長しなくてはならないのは、単に私たちのためではありません。私たちが実を結ぶようになるためです。義の実、救いの実を結ぶためです。しかし、それは「平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と語られているのです。そのためには本当の知恵、上からの知恵、神からの知恵と分別を求めなくてはなりません。天からのものによって成長した、本当の意味で成熟したキリスト者となることを求めていきましょう。