ヤコブの手紙 1:1‐18
ヤコブの手紙第一章には「試練」という言葉が繰り返し出てきます。また「誘惑に遭う」あるいは「誘惑する」という言葉が出てきます。名詞と動詞の違いはありますが、基本的には同じ言葉が用いられています。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。
それが指し示している具体的な事柄は信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいはパウロが経験したように肉体に与えられた棘、すなわち病気かもしれません。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。
いずれにせよ、そのような苦しみは、確かに「誘惑」として働きます。人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力として働きます。しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面は、また同時に、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。信仰の内容が問われるのです。いったい誰を信じているのか。何を信じているのか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのか。内容を問われるのです。
それゆえ「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1・2)と書かれています。苦難が誘惑すなわち悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。
信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として必要なことです。神にとってではありません。人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。
信仰が試される時、信じてきたことの中身が問われます。私たち自身、もう一度自分の足場を見直さざるを得なくなります。そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。目を凝らします。するとより良く見えてきます。信仰の内容と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こるのです。
そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。そのように人は信仰に留まる力を与えられるのです。そして、信仰に留まるということは、時として具体的な苦難の中にあえて留まるということをも意味します。放棄しない。逃げ出さない。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。
そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働く時、それはさらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。
ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。
ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです
しかし、そうは言いましても、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えます。具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。
ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。上手に苦難を回避して世渡りするための知恵ではありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかしもし私たちが単に苦難を回避するだけでなく、直面している現実の中に神が与えてくださっている意味や神の目的を見出し、忍耐強く留まろうとするならば、神からの洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。
実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜ私はこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、私たちが「なぜ」と口にする時、必ずしも答えを求めているとは限りません。私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らない。人にせよ神にせよ誰かを責めたいだけかもしれません。
もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に求めなくてはならないのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。「もう神を信じられない」などとつぶやいている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」(6‐7節)と語ります。そうです、疑ってなどいる場合ではありません。私たちは、神に求め神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかないのです。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局、一生「なぜ、なぜ」とぼやきながら生きるか、どこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのです。
苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自然に信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一には誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に、願い求めるべきなのです。
(祈り)