ヤコブの手紙 4:1-10
前回の箇所は「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(3:18)という言葉で終わっていました。しかし、その通りになっているならば、この手紙が書かれる理由もありません。現実にはそうなっていないから、この手紙が書かれているのです。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」(1節)とヤコブは言います。「あなたがた」すなわち、教会において戦いや争いが起こっていることが前提とされています。それは何故に起こるのか。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」とヤコブは言うのです。
私たちは神の恵みによって救われて、神の民とされました。教会生活とはこの神の恵みに答えて、神を愛し、隣人を愛する生活です。私たちが集められたのは、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うためです。
しかし、現実には自分の欲求の満たしが教会生活の中心となってしまうことはあり得ます。その時、教会は自分の欲求を満たすための場となり、お互いは欲求の満たしを求める対象となります。しかし、自分の欲していることが得られないことはあるのでしょう。相手が自分の願いどおりにしてくれない時に、そこに怒りが生じ、争いが生じます。
そこで、「あなたがたは欲しても得られず、人を殺します」とヤコブは言います。いくらなんでも、私たちは人を殺したりはしていないと言うかもしれません。しかし、ヤコブは何の説明もしていませんが、ヨハネははっきり語っています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3:15)と。問題は実際に手を下したか否かではないのです。この人はいて欲しくないと思う時、存在しないで欲しいと思う時、神の目から見れば、それは殺しているのと一緒なのです。
そのように、「あなたがたは欲しても得られず、人を殺します」。しかし、そこで続けて、「得られないのは願い求めないから」とヤコブは言います。「願い求めない」――誰に?神様に、です。本当は、人に求める前に、まず神に願い求めるべきなのです。しかし、神に願い求めるならば、当然のことながら、その願い求めの根底にあるものが問われます。神の御心に適っているか否かが問われます。
ですから、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(3節)と書かれているのです。いや、実際には「自分の楽しみのため(快楽のため)」という意識ではないかもしれません。「神のために!」「キリストのために!」と思っているかもしれないのです。しかし、だからこそ神の御前において本当の動機の部分に光が与えられなくてはならないのです。結局は「自分のため」ということがいくらでもあるからです。
そのように自分の欲求の満たしが中心となった教会生活。それぞれが自分のことばかりを求めているキリスト者の集まり。互いに要求し合い、願いがかなわないところで争い合っている神の民の姿。教会がそのような姿であるならば、神に背いたこの世界、聖書が「世」と呼ぶ世界と、少しも変わりません。自らの欲望の満たしのために戦いや争いを絶え間なく続けてきた「世」と同じなら、それは「世の友」に他なりません。
ヤコブが「世の友」と呼ぶとき、それは必ずしも信仰的なことには無頓着な、世俗のことにしか関心がない世俗的な人を指しているわけではありません。実際に、教会において戦いや争いが起こる時、信仰者同士が分かれ争う時、その姿は時として非常に信仰熱心であり、まさに神のために戦っている姿を呈しているかもしれないのです。
しかし、最も深い動機のところにおいて自分が中心にいるならば、それは「世の友」なのであって、それは「神の敵となることだ」と言うのです。そこまで言うのは、ヤコブが聖書から神の心を聞き取っているからです。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる』」(5-6節)。
この通りの言葉で聖書に記されているわけではありません。しかし、聖書に書かれているのは、まさにこういうことではありませんか。ヤコブが「聖書」と呼んでいるのは旧約聖書ですから、「わたしたちの内に住まわせた霊」とは、聖霊降臨後に与えられた聖霊の内住ではありません。創世記に記されている命の息です。まさにそのようにして生きる者となった私たちを、神はねたむほどに愛しておられる。すなわち、完全に御自分のものとしたいと欲しておられるのです。そして、その神がもっと豊かな恵みをくださろうとしておられるのです。ならば、その御心に背いて、世の友になってはならないのです。
それゆえに、「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」とヤコブは言うのです。しかし、ある意味で事柄はそう単純ではありません。自分が「世の友になりたがっているのだ」という自覚が常にあるとは限らないからです。先週の箇所において読みましたように、知恵があり分別があると自認している人の知恵が、実際には「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔からでたもの」であることはあり得るからです。そのような知恵によって動かされ、自覚ないままに世の友になっていることはあり得るからです。
そこにこそ、まさに「世」についてだけでなく、「悪魔」について語られなくてはならない理由もあるのでしょう。だからこそ、ヤコブはこう続けるのです。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(7節)。
教会において戦いや争いが起こっていることが前提とされていると最初に申しました。そのような時に、本当に必要なことは戦っている相手に打ち勝つことではないのです。問題は神との関係にあるのです。神に従って相手と戦っていると思っているかもしれないけれど、神に服従するならば、本当の敵と戦わなくてはならないのです。悪魔に立ち向かわなくてはならないのです。人間同士の争いから悪魔を追い出さなくてはならないのです。
ではどのようにして悪魔に反抗するのでしょう。悪魔が最も嫌う仕方においてです。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(8節)。ではどのように神に近づくのでしょう。悔い改めによってです。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(8-10節)。
戦いがあり争いがある時、他者の悪はいくらでも見えてくることでしょう。しかし、本当に見えてこなくてはならないのは自分自身です。心の最も深い動機の部分です。手を清めるために、心を清めるために、何よりも必要なのは本当の意味で神によって照らされて、自分自身を知って、本当の意味でへりくだり、正しく悲しみ、嘆き、泣くことなのだろうと思います。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。
(祈り)