2022年5月18日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:14~26

 ヤコブの手紙 2:14‐26

 今日の箇所との関連で、一つの聖書箇所を開いておきます。ローマ4:1以下です。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:1‐5)。

 行いによって義とされ救われるのではない。信仰によって義とされ救われるのである。――この教理は「信仰義認」と呼ばれます。ローマの信徒への手紙において、パウロが引用しているのは、創世記15:6の言葉です。その時にアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。しかし、主は彼を外に連れ出してこう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と。そして、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。その言葉に続いて、先の引用の言葉が来るのです。信仰が義と認められたのです。その同じ言葉を、今日の箇所でヤコブも引用しています(23節)。ですから、ヤコブの手紙においても「信仰義認」の教理は前提なのです。その上でこれらのことが語られているのです。

 それゆえ、この手紙を読むに当たって、私たちもまた、まず「信仰義認」をしっかりと受け止めておく必要があります。私たちは何かを行うことによって神に義と認められるのではありません。何かを行うことによって、その報いとして救われるのではないのです。救いは恵みによるのです。私たちはただ信じて救われるのです。しかし、そのことを踏まえた上で、なお聞くべきことがある。それがヤコブの手紙のメッセージです。

 14節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」ここを読みますと、信仰義認を踏まえた上で、なお聞くべき言葉がある理由が見えてきます。要するに「行いの伴わないキリスト者」の問題です。行いが伴わないことが、悔い改めの方向に向かうのならよいのです。そうではなくて、行いが伴わなくても「自分は信仰を持っている」と主張して、それで十分なのであると開き直る人々がいたということです。「人は行いによるのではなく、信仰によって義とされるのである。行いが伴わないことに何の問題があるか」という主張です。

 言い換えるならば、それは「行い」と「信仰」とを切り離してしまうという問題です。18節には「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という言葉で表現されています。ちなみにこれはヤコブから見た「あなた」「わたし」ですから、本人が言っている言葉そのものは「わたしには信仰があり、あなたには行いがある」となります。いずれにしても、そのように両者を切り離すことはできるのでしょうか。いや、それはできないのだ、というのがここに語られているテーマなのです。

 「信仰」と「行為」は切り離せない。それは単純に考えてみればすぐに分かることです。私たちの日常において、「信じること」と「行動」は密接に結びついているからです。

 例えば、私たちは食べ物に毒が入っていないと「信じている」から、口に入れます。落ちないと「信じている」から飛行機にも乗ります。それが信じられなかったから決して口に入れないし、飛行機にも乗らないでしょう。「信じること」には、必然的に信じた者の行動が伴うのです。口でいくら「信じている」と言っても、行動がそれを否定していたら、信じていることにならないのです。

 ヤコブは、何も与えないでいて、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言う人の場合を例に挙げています。「満腹するまで食べなさい」という言葉は、何か食べるものを与えてこそ意味を持つのです。同じように、「信じます」という言葉は、信じるゆえの行動が伴ってこそ、意味を持つのです。そうではない、ただ「信じます」という言葉だけが行いから分離されるならば、それは何の役にも立たない、とヤコブは言うのです。

 このような話が出てくる背景には、教会の中に定型化した信仰告白の言葉が生まれてきたという事情があります。最古の信仰告白の言葉の一つとして知られているのは、1コリント12:3にも出てきます「イエスは主である」という言葉です。他にも、たとえば1コリント15章に、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3‐4)というほぼ定型化した信仰告白の言葉が出てきます。今日私たちが唱える使徒信条は、その発展した形です。

 そのような信仰告白の発展は、異端との戦いにおいて絶対に必要なことでした。教会は自分たちが何を信じているのかを明確にする努力をしてきたのです。しかし、もう一方において信仰というものが信仰箇条に対する知的な同意であるかのように見なされる危険がありました。そして実際に、信仰箇条に同意し受け入れれば「信仰によって義とされる」のだと考える人たちも出てきたのです。

 そのような考えに対して、この手紙では「神は唯一である」という旧約時代からの定型化した信仰箇条を例として反論しています。信仰が行いから切り離され、信仰箇条に同意するだけならば、そんなことは悪霊どもだってそうしている、とヤコブは言うのです。本当に重要なのは、信仰箇条を受け入れ、同意を言い表すことではないのです。そうではなくて、言い表しているその信仰を実際に生きているかどうか、なのです。

 そのことを旧約時代の二人の信仰者を例に挙げて説明しています。一人はアブラハムです。先にも引用しましたように、彼については「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と語られています。しかし、それはただ神様が与えてくださった約束に対して、「信じます」と告白したということではありません。彼は信じたように生きたのです。

 ここで取り上げられているのは創世記22章に書かれている「イサク奉献」の物語です。神様はアブラハムに「わたしが命じる山の一つに登り、彼(イサク)を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)と言われました。アブラハムは、実際に献げようとした。どうしてですか。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われた主を信じたからでしょう。

 目に見える現実としては、その約束は実現しないように見えるのです。たった一人の子孫が死んでしまうのですから。しかし、アブラハムは主を信じるゆえに、その言葉に従ったのです。そして、そのように行動したのです。その行動によって、あの星空のもとで主を信じたその信仰が全うされたのです。

 ですから、この出来事を引用して「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と言うのです。その意味するところは明らかでしょう。パウロの語る信仰義認を否定しているのではありません。人が義とされるのは、行いから切り離された「信仰だけ」によるのではない、ということです。もう一つの娼婦ラハブの例も同じです。なぜ、敵であるはずのイスラエル人をかくまったのか。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と信じたからです。それが言葉だけではなかったからです。

 行いから切り離された「信仰だけ」――それはヤコブに言わせれば死んだ信仰です。辛辣な言葉です。しかし、ヤコブは読者を断罪するために書いているのではありません。ヤコブは、私たちが何の役にも立たない死んだ信仰の中に開き直って留まるようなことが決してないようにと心から願っているのです。

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