2022年2月20日日曜日

「互いのために祈りなさい」

ヤコブの手紙 5:12‐20

苦しみにおいても、喜びにおいても
 本日の第2朗読ではヤコブの手紙が読まれました。13節には次のように書かれていました「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。

 苦しんでいるときに、その苦しみを打ち明けることのできる誰かがそばにいる人は幸いです。また、喜びを抱いている時に、その喜びを分かち合い、一緒に喜んでくれる人がそばにいる人は幸いです。しかし、そのような人がいる人であっても、いない人であっても、大事なことは、苦しみの内にある時に、あるいは喜びを抱いている時に、まずは人の所にではなく、神様のところに持って行くということです。苦しみも喜びもそのまま携えていく。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)とはそういうことです。

 苦しい時には、神様に向かって「苦しいです」とそのまま言ったらよいのです。その苦しみを神様の前に携えて行って注ぎ出す。するとそこで何が起こるのでしょう。その苦しみによって、神と人とが結びつくのです。苦しみのゆえに、さらに深く結びつくのです。

 そのような祈りの実例を、私たちは詩編の中に数多く見ることができます。詩編全150編の内の多くは「嘆きの歌」として分類されます。詩編に嘆きの歌が多いということは、言い換えるならば、嘆きの中において人は繰り返し神と共にあること、そして神との豊かな交わりを経験してきたということなのです。

 例えば詩編130編はこのような言葉から始まっています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1‐2)。彼が「深い淵の底」と呼んでいる具体的な状況は分かりません。それが病気なのか、人生の失敗なのか、人間関係における苦悩なのか、外敵による迫害なのか分かりません。しかし、そこから彼は声の限りに神を呼ぶのです。「主よ、この声を聞きとってください」と。

 その言葉から分かるように、初めに彼が苦しみの中で経験しているのは、遠くにいる神なのです。だから「この声を聞きとってください」と叫ばざるを得ない。しかし、詩編はこのように続くのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(同3-4節)。その苦しみの深き淵の底において彼が知ったのは、自らの罪深さであり、そして、その罪を赦してなお共にいてくださる神の恵みだったのです。いわば彼は、深い淵の底にいながらも、そこで救いの神に出会っているのです。それは詩編の中の一例に過ぎません。しかし、確かに聖書は苦しみにおいて神と結びついた多くの人の姿を私たちに示していると言えるでしょう。

 同じことは喜びについても言えます。人は喜びによっても、神と結びつくことができるのです。人が喜びを抱くのは、喜びをもたらす出来事があるからでしょう。それは何でしょうか。願ったことが実現したことでしょうか。あるいは願いもしなかった喜ばしいことが実現したことでしょうか。しかし、本当に大事なことは、その出来事そのものにではなく、その背後におられる神様に目を向けることなのです。喜びにおいて神を賛美するとはそういうことです。

 この世の出来事は過ぎ去り、移り変わります。喜ばしい出来事もそれはやがて過ぎゆく人生の一こまに過ぎません。しかし、私たちは神を賛美することによって、この地上の一時的な出来事を通して、永遠なる神と共にいることができるのです。そして、一時的でない永遠の喜びに触れることができるのです。

誰かに祈ってもらうという関係
 そのように、苦しみにしても喜びにしても、まず神のもとに持って行く。祈りにおいて賛美において神のもとに持っていく。そのような神との関わりに生きる時、人との関係も変わってくるのです。

 14節においてまず語られているのは、教会の長老との関係です。ここで「長老」というのは、今日の教会で言えば「役員」であるとも言えますし、あるいは「牧師」を指すと言うこともできます。「苦しみ」の具体的な一つの例として挙げることができるのは「病気」でしょう。それゆえにヤコブはさらに次のように勧めるのです。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(14節)。そのように、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すのです。

 そのような関係を象徴する麗しい出来事を、今日の福音書朗読において読まれた箇所は伝えています。屋根を壊して中風の人をつり降ろした四人の男たちの姿がそこに描かれていました。中風という病気による一人の人の苦しみは何を生み出したのでしょうか。屋根をぶち壊してでもイエス様のもとに連れて行ってあげたいという四人の男と、この中風の人との関係を生み出したのです。そして、彼らの関わりをイエス様も目にしていました。聖書は何と伝えていますか。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。まさにそれは、彼らの信仰の目に見える現れだったのです。

 「病気」という具体的な一つの苦しみ生み出した、その人をイエス様のもとに連れて行くという関係――それはまさに、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すことを指し示す、象徴的な出来事であったといえるでしょう。

 そのような関係における祈りについて、聖書にはさらに次のように書かれています。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(15節)。すなわち、イエス様が癒してくださる、ということです。

 今日の福音書朗読もそうですが、福音書にはイエス様が病気を癒されたという話が繰り返し出てきます。そして、聖書によれば、それはイエス様が地上を歩いておられた時だけでなく、その後にも主は癒しの業を続けておられる、ということが分かります。使徒言行録には、イエス様がなさった癒しの業が、今度は使徒たちと教会を通して行われていることが伝えられています。今日お読みしたヤコブの手紙を見ても、人の祈りを通して、主が癒しの業をなさっていることが分かります。

 実際、教会生活をしていますと、様々な形で神の「癒し」を経験いたします。ところで「癒し」とは何でしょう。聖書的に見るならば、それは神の国のしるしです。神の国の前味と表現しても良いかもしれません。私たちが神の国に入れられるのは将来のことであったとしても、私たちは既に神の国を経験しながら生きているのです。神の国の前味。それが信仰生活です。

 神の国を考えるならば、私たちが今どのような病気を患っていたとしても、最終的には完全に癒されると言うことができます。神の国に病気はないのですから。それは完全に命の支配する世界であり、完全な癒しの世界です。そのような神の国を、私たちは今、信仰生活において、様々な形で味わいながら生きているのです。ですから、神の国の味わいを病気の癒しという形で体験することはあります。もちろん、「病気」そのものは治らないこともあります。人生最後の病気は治りません。しかし、神の国を味わいながら平安の内に天に召されるならば、それもまた、もう一つの癒しの経験であると言えるでしょう。

 そして、さらに、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(15節)と書かれています。全ての病気を罪と結びつけることは避けなくてはなりませんが、多くの場合において、病気や様々な苦しみが罪に起因することは事実です。主は癒してくださるだけでなく、その根底にある罪をも赦してくださいます。罪を赦すことは最終的には永遠なる神にしかできないことです。そのように、苦しみの中で「誰かに祈ってもらう」時に、あの詩編130編のように、そこで神の赦しにあずかり、永遠の命の世界に触れるということが起こるのです。

罪を告白し合いなさい
 そして、それは教会の長老との間に留まりません。本来は長老であるなしにかかわらず、信徒相互の関係がそのようなものであるはずなのです。それゆえに、ヤコブは次のように続けます。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)。罪を告白し合うというのは、自分の最も暗い部分を明らかにすることであり、自分の弱さや惨めさをさらけ出すことです。それを為しえるとするならば、その「お互い」がキリストのもとにあり、十字架のもとにある時だけであると言えるでしょう。

 立派で正しい人であるかもしれないけれど他人を裁いて見下している人に対して、自分の問題を話して「お祈りしてください」と言えるでしょうか。絶対に言えないだろうと思います。私たちが自分の罪に関わる問題を口にして「お祈りしてください」と言えるとするならば、それはそれぞれがイエス様の十字架のもとに身を置いて「わたしの罪を赦してください」と祈る者である時だけなのです。ただ主の恵みによって赦され救われたことを知る者だけが、互いに罪を告白し、祈り合うことができるのです。

 そして、本来、それこそが教会の交わりなのです。教会にしかない互いの関係であるはずなのです。ただ親しい友人というだけならば、何も教会の中だけでなく外にもいるでしょう。人間的な意味では、教会の外の人の方が親しいということもあり得るでしょう。しかし、教会にしかない関係があるのです。それは「お互いのために祈る」という関係です。自分の問題を口にして「祈ってください」と言える関係です。そのような関係を知らないならば、それは教会の交わりを知らないに等しいのです。それは実に残念なことです。私は頌栄教会の人がそのような関係に生きるお互いであって欲しいと思います。

 そのように互いに祈る関係において、人は神の国に触れるのです。この地上において神の御業を見るのです。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)とヤコブは言います。その正しさとは、神との関係における正しさです。その意味においては、私たちは皆、イエス・キリストによって罪を贖われ、神との関係において義人とされているのではありませんか。神の国がこの地上に現れるための通路となるのは、何も特別な人ではありません。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」と書かれています。私たちがお互いのために祈る時、お互いが神の御業の現れるための通路となるのです。

(祈り)

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