ヤコブ1:2‐5
誘惑と試練
本日の第2朗読は「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)という言葉から始まりました。「試練」と訳されているこの言葉は、多くの場合「誘惑」と訳されます。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。
この手紙の文脈において「試練」と訳されている言葉が指し示している具体的な事柄は明らかです。信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいは、パウロが経験したように、肉体に与えられた棘、すなわち病気が苦しみの大きな原因となっていたかもしれません。いくつかの苦しみは互いに絡み合っているものです。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。
いずれにせよ、それがいかなる苦難であれ、苦難は確かに「誘惑」としても働きます。人間を神から引き離す力として働くのです。苦難は神への「信頼」から「疑い」へと導きます。そして、人間を罪へと引きずり込む力として働きます。人間を死へと導く力として働きます。苦難は確かに人間に対して悪魔の力として働くのです。
しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面はまた、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。それは私たちの信仰の内実が問われる場面であると言ってもよいでしょう。私たちはいったい誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。そのことが問われるのです。
毎週の礼拝において信仰告白を唱和していること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。そのことが問われます。私たちは確かに具体的な苦難の中で、悪魔の力が神から私たちを引き離そうと働く中で、信仰が試され、普段私たちが信仰と呼んでいるものの内実を問われるのです。
そこでヤコブの手紙は次のように私たちに語りかけるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)。もし、苦難が誘惑でしかないならば、悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。既に述べたように、私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。
信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として人間に必要なことなのです。そうです、それは神にとって必要なのではありません。私たちの信仰を知るために、わざわざ神が人間にテストを課す必要はありません。それは神にとって必要なのではなく、人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。その良きものとは何でしょうか。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)と書かれているとおりです。
ここで言われている「忍耐」とは、人間の性質としての「我慢強さ」のことではありません。我慢強さということならば、生来我慢強い人もいれば、そうでない人もいます。しかし、ヤコブが語っているのは、そのような人間の性質のことではありません。彼がここで「わたしの兄弟たち」と言って語りかけていることに注意してください。彼は信仰における兄弟たちに語りかけているのです。ここで話題とされているのは、あくまでも信仰に関することなのです。この「忍耐」という言葉はもともと「留まる」という言葉に由来します。それはあえて留まることのできる力です。どこに留まるのでしょう。信仰に留まることです。
信仰に留まると言いましても、その信仰の内容が明瞭でないならば、留まることはできないでしょう。誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。漠然としているならば、留まることはできないでしょう。しかし、既に申しましたように、試練の中で、信じている私たちが問われます。信仰の中身を問われるのです。ですから、私たちも自らに問わざるを得なくなります。「私は誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか」と。
そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてきます。より良く聞こえてきます。漠然としていたことがはっきりとしてきます。信仰の内容がはっきり見えてくるならば、信仰と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こることです。
こうして講壇に立って皆さんと共に礼拝をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿勢が変わってくる。そのようなことが起こります。そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。希望が確かにされる場ともなり得ます。そのようにして、人は信仰に留まる力を与えられるのです。忍耐が与えられるのです。
そして、信仰に留まるということは、時として与えられている具体的なその場にあえて留まるということをも意味いたします。放棄しないことです。逃げ出さないことです。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。
そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働き始める時、忍耐はさらに良きものをもたらすのです。
しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできないでしょう。しかし、これはあくまでも信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。
この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉でしょう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです
知恵を求めよ
しかし、それでもなお現実の信仰生活において、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えるでしょう。こうして静かに礼拝の場に座っている時は良いけれど、いざ日常の生活の中に置かれる時、なかなか聖書の言葉と現実とが結びつかないということが起こってまいります。抽象的な概念ではなく、具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。
しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。
ここでも語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。苦難に満ちた世を上手に渡っていくための処世の知恵でもありません。そのような知恵ならば、何も神に求める必要はないでしょう。しかし、もし私たちが、単に苦難を回避するだけでなく、今直面している現実の中に神が与えてくださっている意味、神が持っておられる目的を見出して生きていこうとするならば、神から与えられる洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。
実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜよりによってこの私に起こったのか」。「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、考えてみてください。私たちが「なぜ?なぜ?」と口にしている時、必ずしも答えを求めているとは限らないでしょう。「ああ、分からない」と言っている時、私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らないでしょう。
もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うていたりするだけではだめなのです。神に向かわなくてはならないのです。そして、神に向かうとするならば、本気で向かうべきなのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。私たちは、神に求め、神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかありません。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局は、一生「なぜ、なぜ」を繰り返しながら生きるか、あるいはどこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのでしょう。
苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一に誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは神に知恵を願い求めるのです。神は「誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神」であると書かれています。神に問うてもとがめられることはありません。神は惜しみなく与えてくださいます。
(祈り)