ヤコブの手紙 5:1‐11
今日の聖書箇所は「富んでいる人たち、よく聞きなさい」という言葉で始まります。そして、富んでいる人に対する、非常に厳しい糾弾とも告発とも言える言葉が続きます。ここで問題とされているのは、自らのために富を蓄えながら決して他者のために用いようとはしないエゴイズムです。また、ここで問題とされているのは、彼らが富を蓄えるために取った不正な手段であり、富める者の力によって曲げられた正義です。
しかし、私たちはここでヤコブが、ただ「お前たちがしていることは悪いことだから改めなさい」と言っているのではないことに注意しなくてはなりません。彼らは「悪い」のではなくて「不幸だ」と言われているのです。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(1節)。ですから、この箇所で重要なことは、降りかかってくる不幸とは何なのか、ということです。ここで語られているのは、単なる悪の告発ではないのです。
そこで私たちが決して読み過ごしてならないのは3節の後半です。「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(3節後半)。そのように聖書は確実にやってくる「終わりの時」について語っているのです。それはここだけではありません。聖書は繰り返し「終わりの時」について語っているのです。「終わりの時」とは何らかの結論が出る時です。肯定的にせよ否定的にせよ、最終的にはある判断が下され結論が出る。私たちの人生にも、この世界にも、最終的な判断が下され結論が出る時が来るのです。その判断を下すのは誰か。人間ではありません。神です。
個々の人生に「終わりの時」があるということを理解することは難しくありません。なぜなら人間は必ず死ぬからです。そこで結論が出る。その結論を出すのは神です。私たちは人がどのように亡くなったかで、幸不幸を判断します。しかし、どのように死んだか、安らかであったか否か、床の上であったか道路の上であったかは、本当はさほど重要なことではないのです。なぜなら判断を下すのは神だからです。ならば決定的に重要なことは、その人が神との関わりにおいてどう生きたか、神の御前でどのように生きたか、ということなのでしょう。
そのように、個々の人間も、この世界全体も、神が裁きを下す「終わりの時」に向かっているからこそ、例えばここに書かれているような、富んでいる人々のあり方が問題となるのです。エゴイズムや不正が問題となるのです。それは単に人道的な問題ではないからです。そうではなくて、神の前における問題なのです。ならば、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係しているとも言えます。裕福であるか否かにかかわらず、私たちもまた、同じように終わりの時に向かって存在しているからです。
しかし、私たちは「終わりの時」を5節にあるように「屠られる日」としてのみ見る必要はありません。7節以下において、ヤコブは全く異なるイメージを用いてこの「終わりの時」について語るのです。
7節を御覧ください。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)と書かれております。実は、訳出されておりませんが、ここには「それゆえに」という言葉があります。話はその前と繋がっているのです。5節にあるように、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」ているだけであるならば、「終わりの時」はまさに恐るべき時であるに違いありません。しかし、教会はキリストを通して、それとは全く異なるイメージを与えられているのです。聖書はそれを「主が来られるとき」(7節)と表現します。私たちが週ごとに告白している使徒信条においては、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表されています。
それは恐るべき言葉でしょうか。いいえ、そうではありません。そのような「主が来られるとき」について語るこの聖書箇所には、まったく悲壮感がただよっていないでしょう。むしろ明るい希望が満ちているのです。なぜでしょうか。それは生ける者と死ねる者とを裁き給うキリストは、まったく知らない御方ではないからです。否、むしろその御方を既に知っているということが、キリスト教信仰の本質だからです。
教会がこれを「キリストの再臨」と呼び慣わしてきたことは極めて正しいことです。来られるのは「二度目」なのです。裁くために来られるのは、かつて私たちのために肉を取ってこの地上を歩まれ、私たちを愛し、私たちのために苦しみを受けられ、私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪が赦されるために血を流してくださった御方です。その御方は私たちが義とされるために復活され、天に上げられたた御方です。その御方は教会の頭(かしら)として、聖霊において、御言葉を通して、今も私たちと共にいてくださり、私たちを治めてくださっている御方です。私たちは、こうして御赦しに与った者として、共に礼拝を捧げ、その御方に心からの感謝の讃美を捧げているのです。
その御方が来られるのです。再び来られるのです。「終わりの時」は私たちにとって、そのような「主が来られるとき」に他なりません。ですから、その終わりの時に向かうということは、《好きなだけ食べて肥え太った牛が屠られる時を待つこと》に例えられるのではなくて、《農夫が忍耐強く大地の尊い実りを待つこと》に例えられるのです。
私たちが経験的に知っているように、信仰は必ずしも労苦や苦難の免除を意味しません。むしろ信仰をもって神と共に、また人と共に真実に歩もうとするならば、それゆえの労苦や苦難を引き受けなくてはならないものです。そして、そのような労苦や苦難が必ずしもすぐに報いられるわけではありません。死ぬまで報いられないこともある。死んだ後でさえ、だれにも知られず、感謝の言葉一つかけられないこともあり得ます。
しかし、「忍耐しなさい」と聖書は言うのです。この「忍耐」という言葉は「気を長く持つ」という意味の言葉です。農夫は大地を耕す労苦がすぐに報いられないことを気にしません。なぜなら、最終的には実りの時が来ることを知っているからです。だから気長に待つのです。同じように、主が再び来たり給うことを知る者は、労苦に報いが伴わないことを気にしなくて良いのです。
その「主が来られる時」は、ヤコブが書いているように「迫っている」のかもしれません。あるいは、そう書かれてから既に二千年近くが経ってしまったように、まだ先のことなのかもしれません。しかし、それは大して重要なことではありません。いずれにせよ、私たちの人生は主の御前にあるのです。それはあたかも私たちがいる家の戸口に主が立っておられるようなものです。
「主が来られるときまで忍耐しなさい」――その具体的な実践は、「互いに不平を言わないこと」であるとヤコブは言います。不平を言い合っている時、私たちは戸口に主が立っておられることを思い描かなくてはなりません。不平を言い合っている姿もまた、主の御前にあることを忘れてはならないのです。
「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(11節)。主が苦しんだヨブに対してどのようにしてくださったか――それはただ単に繁栄を回復してくださっただけではありません。何よりも大いなることは、ヨブが最終的に、「あなたのことを、耳にはしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と言い得る者とされたということです。私たちもやがて「慈しみ深く、憐れみに満ちた方」である主に顔と顔とを合わせてまみえる時が来るでしょう。それこそが、私たちに約束されている、何よりも大きな報いなのです。
(祈り)