2022年5月4日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:19~27

ヤコブの手紙 1:19‐27

 この手紙の宛先は、「離散している十二部族の人たちに挨拶します」と書かれています。聖書の中の他の書簡には見られない、独特の書き方です。このような手紙はもちろん教会に対して書かれたものであって、そこにはユダヤ人もいれば異邦人もいるわけです。しかし、あえて「十二部族」と書かれているところを見ると、この読者の中にはユダヤ人キリスト者がいることが初めから念頭に置かれていることが分かります。

 ユダヤ人キリスト者というのは、律法の世界の中からキリスト者となった人たちです。それはすなわち、もともとは律法の行いによって義とされ救われると信じて疑わなかった人たちだ、ということです。そのような人たちが、「真理の言葉」(18節)に出会って、人は律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われると知ったのです。そのような人たちが念頭に置かれていることが分かると、今日の聖書箇所も理解しやすくなります。

 ヤコブは言います。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19節)。ここに出てくる「怒る」というのは、単に誰かから酷いことをされて怒ることではありません。そうではなくて、いわば正義の怒りです。ですから、「人の怒りは神の義を実現しない」という話になるのです。不義に対する怒り、正義が失われていることに対する怒りです。

 ユダヤ人キリスト者たちはもともと律法の世界にいたのです。それは少なくとも表向きには、神の定められたことを守り、正しく生きることが重んじられる世界です。それは言い換えれば、定められたことを守らないこと、正しく生きていないことは厳しく裁かれる世界です。裁かれないように自分自身に正しさを要求するならば、当然、人にも要求するようにもなります。人の正しくない部分が目につきます。批判したくなます。正したくなります。律法の世界からキリスト者になった人には、そのような残渣が残っていたに違いない。そして、そのような在り方は周りの異邦人キリスト者にも影響を与えます。

 しかし、ヤコブは勧めるのです。「聞くのに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」それはなぜか。「人の怒りは神の義を実現しない」からなのです。人の怒りは神の目から見て正しいことを実現することはないのです。人の怒りによって神の目から見て正しい神と人との関わりは生まれないのです。「人の怒りは神の義を実現しない」。まずしなくてはならないのは、怒って何かを語ることではありません。別なことです。ヤコブは言います。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」

 この「素直に」は、「捨て去る」にかかると読むこともできますが、その後につながっていると読むこともできます。つまり、「心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなさい」とも読めるのです。この「素直に」というのは、「へりくだって」という意味の言葉です。御言葉はまず私たち自身に語られているのです。他の誰かではありません。私たち自身の罪と悪を明らかにするのです。その言葉を受け入れるには「へりくだり」が必要なのでしょう。そして、示された悪を捨てるのにもまた、へりくだりが必要なのです。

 さて、律法の世界の残渣を残したユダヤ人キリスト者がいる一方で、反対の方向に極端に触れてしまった人々もまたいたようです。すなわち、「人は行いによるのではなく、信仰によって救われるのだから、もはや行いはどうでもよいのだ」と考えてしまった人たちです。そのような人たちを念頭に置いた言葉はこの後にも繰り返し出てくるのですが、ここもまたそのようなものと考えられます。ヤコブは言うのです。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と。

 御言葉を聞く時に、私たちは、本当は分かっているのです。これは自分に対して語られたのであり、神の言葉は私たち自身の応答を求めている、と。しかし、その一方で私たちは自分自身を欺きにかかるのです。「でも、御言葉に応答しないとしても、私たちはどうせ赦されるのだから。御言葉を行っても、行わなくても、どちらにしても救われるのだから」と。すると、もはや応答を前提として御言葉を聞くことはできなくなります。それこそ「ただ聞くだけ」になってしまう。

 それは「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」とヤコブは言います。鏡に映すように、私たちは御言葉によって私たちの現実を見せられるのです。実際の自分の姿を見せられるのです。しかし、応答することを前提とせずにただ聞くならば、結局は自分の姿を見せられても、意味がなくなってしまいます。どうせその姿は忘れ去られるだけですから。鏡を離れたら自分の姿を忘れてしまうように!

 そうならないために大事なことは、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」ことなのです。律法の行いによって救われるのではないからと言って、律法を軽んじるのではなく、むしろ「自由をもたらす完全な律法」に目を注ぐべきだというのです。これは「完全な自由の律法」が直訳です。完全な自由の律法とは、キリストによって神の愛を啓示された者として、愛する者となることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストの律法です。福音の真理は、ただ神の愛を示すだけでなく、愛し合う生活へと向かわせるのです。愛することを求める律法は、神の要求を満足させるために与えられているのではなくて、私たちの幸いのためであり、私たちの祝福のためなのです。ですから、「このような人は、その行いによって幸せになります」と語られているのです。

 そしてさらに、ここで語られている「行い」というものが、いわゆるユダヤ人的な信心深さとは異なることをヤコブは語ります。祭儀的な事柄をきちんと守り、様々な戒律を落ち度なく守ったとしても、自分の舌を制御せずに、父である神を賛美したその同じ舌をもって隣人を呪っているとするならば、それは本当に神を崇めていることになるのか、と言うのです。舌が問題となるのは、それはまさに「愛する」ということに深く関わっているからなのです。

 そして、舌を制御することに加えて、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」を挙げています。みなしごとやもめは、社会の中において弱い立場にある人々を代表しています。私たちは、「すべての人を愛し、すべての人を受け入れます」などと言う必要はありません。なにも大きなことが求められているのではないのです。すぐ目の前に助けを必要としている人がいる。支えを必要としている人がいる。その人を助け支える。それは具体的なことです。そのためには世捨て人になってはなりません。信仰者はこの世のただ中に生きなくてはならないのです。御子があえて肉を取られてこの世のただ中で生活されたようにです。だからこそ世の汚れから自分を守ることが課題となるのです。

 身近な人間を愛することを抜きにした清さや信心深さとは何なのか。怒りばかりが燃え立っている《正しさ》の主張とは何なのか。何が本当に神の望んでおられることなのか。改めて問われているように思います。私たちが一心に目を向けるべきは完全な自由の律法、救い主であるキリストが与えてくださった律法です。

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