2022年6月22日水曜日

祈祷会用 ヤコブの手紙 4:11~17

ヤコブの手紙 4:11‐17

 今日の箇所の直前には、「主の前にへりくだりなさい」(10節)と書かれていました。今日お読みしました16節にも、「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです」と書かれています。そうしますと、そこに挟まれている今日の箇所は、主に「高ぶりとへりくだり」に関係していることが分かります。そのような流れの中で「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」と書かれているのです。悪口を言い合うというのは、高ぶっている、ということなのです。

 それは容易に理解できます。誰かの悪口を言っている時、私たちは自分を相手の上に置いていることは確かですから。しかし、ここで言われているのは、単に人に対する高ぶりということではなさそうです。ヤコブはこう言っているのです。「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」(11節)。つまり、それは「律法に対する高ぶり」であり、さらに言うならば律法を与えた神に対する高ぶりだということです。

 ここでまず気付きますのは、「兄弟の悪口を言う」が「兄弟を裁く」と言い換えられていることです。「悪口」を言うと「裁く」は似ていますが、やはり違います。「悪口を言う」ならば、明らかに悪いことだと分かります。では「裁く」はどうでしょう。イエス様は「人を裁くな」と言われました。しかし、繰り返し頭をもたげてくる疑問は、「では、明らかに間違ったことをしている人に対してはどうするのか」ということでしょう。「裁くのは良くないことですから、何も言わないでおきましょう」で本当に良いのか、ということです。間違ったことを正さなくてよいのでしょうか。「裁く」ことと「正す」ことは、どう違うのでしょう。

 そこで重要なことは、「自分の兄弟を裁いたりする者は、…律法を裁くことになります」と語られていることなのです。前に「自由をもたらす完全な律法」(1:25)という言葉が出てきました。それは一言で表現すれば「愛する」ということだ、と申しました。もともとモーセの律法にしても、その本質は「愛する」ということを求めているのです(2:8)。そうです。問題は相手を愛しているか、愛そうとしているか、ということにあるのです。

 聖書は、明らかに罪を犯している人を放置しなさいとは言っていません。パウロも「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい(直訳は「正しなさい」)」(ガラテヤ6:1)と言っています。しかし、そこで問われるのは、相手を本当に愛しているか、なのです。具体的にはいくつのことが言えるでしょう。相手が本当に正しい道に立ち帰ることを願っているか。そのために相手が罪から解放されることを祈っているか。そのことを信じて期待しているか。そのために自分も重荷を負って労苦するつもりでいるか、等々。それらのこと抜きにして悪を指摘しているだけならば、それは「悪口」でしかない。実際、そのように悪口を言っているだけである、ということがいくらでもあるのでしょう。

 それは「律法を裁く」ことでさえある、とヤコブは言うのです。律法は「愛しなさい」と言っている。しかし、私たちがただ「悪口」を言っているだけならば、「あんな奴、愛する値打ちもありません」と言っているのと同じです。それは「愛しなさいと言っている律法の方が間違っているし、あんな奴を愛せよと命じる神の方が間違っている」と言っているのと同じなのです。そのような私たちに対してヤコブは、「あなたはいつから神を飛び越えて審判者になったのか」と問いかけます。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」(12節)と。

 これが高ぶりの問題なのです。悪口を言うことは、ただ相手に対する高ぶりなのではありません。本当の審判者である神に対する高ぶりなのです。「あなたは、いったい何者か」という言葉をしっかりと受け止めねばなりません。私たちに命じられているのは審判を下すことではなくて、あくまでも愛することなのです。私たちに求められているのは「律法の実践者」となることであって、「裁き手」となることではないのです。

 続いてもう一つの「高ぶり」の実例が13節以下に挙げられています。「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち」です。このヤコブの言葉についての最良の注解は、ルカによる福音書に記されている「愚かな金持ちのたとえ」でしょう(ルカ12:13‐21)。そのたとえの中で、金持ちが言うのです。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。するとその人に対して神様は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。

 この金持ちは、この世的な観点からすれば決して愚かではないのです。先を見据えてきちんと計画を立てているのですから。ヤコブの言及している商売人も同じです。賢いのです。しかし、神はあの金持ちを「愚かな者」と呼びました。なぜでしょう。それはその人の言葉から分かります。彼は言いました。「こう自分に言ってやるのだ」と。「自分」とは直訳すれば「わたしの命(魂)」です。「わたしの命に言ってやるのだ」と言っているのです。それに対して、神様は「その『おまえの命』とやらは、今夜取り上げられる」と言っているのです。そうです、そこから明らかなように、それはそもそも「わたしの命」ではなかったのです。

 イエス様が用いられた「取り上げる」という言葉は、もともとは「要求する」という言葉です。返還することの要求です。それは神様から一時的に託されていたものに過ぎないということです。その託されていたものを、では、誰が支えていたのかと言えば、それは神様御自身なのです。神様が神様のものをもって、神様のものである命を支えていてくださったのです。それが分からず自分の命が自分のもので自分の手の内にあるかのように高ぶっていたゆえに、あの金持ちは「愚かな者」と呼ばれてしまったのです。

 ヤコブも私たちがへりくだって何を認めなくてはならないかを語ります。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(14節)。それは単に私たちが不安定な存在であるとか、儚い存在であることを突きつけるために言っているのではありません。大事なことは、そのような存在であっても主が御自分の与えた命として、今この時にも私たちを支えていてくださるという事実なのです。支えてくださる主があってこその命なのです。ですから「主の御心であれば」という言葉が大事になってくるのです。

 私たちは将来の計画を立てます。計画することは大事です。無計画ではいけません。しかし、「主の御心」を抜きにして、ただ私たちの意志こそが未来を拓き、計画を実現に至らせるのだなどと高ぶってはならないのです。私たちは主の御前においてへりくだらなくてはなりません。

 そして、最後にヤコブは以上のことをまとめて、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(17節)と語ります。この場合、なすべき善というのは、善いこと一般を指しているのではありません。これまでの流れから明らかなように、それは「へりくだること」です。私たちは、本当はへりくだりが何であるかを知っているはずなのです。肉となられた御子を知っているのですから。それなのに私たちが高ぶっているとするならば、それは御前において私たちの罪と見なされる。それは当然のことです。私たちは高ぶりの罪ということの重大さを認識しなくてはなりません。

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