ヤコブの手紙 3:1‐13
今日の箇所では、まず「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」という言葉から始まります。教師について言及しているのは、「言葉」の問題を論じたいからです。ヤコブは前の章で、「行いを伴わない信仰は死んだものです」と語っていました。そして、信仰に伴うべき「行い」について語るとき、まず彼が取り上げているのは「言葉」の問題なのです。
ヤコブは、言葉の問題が決して小さくはないことを、三つのものに喩えます。一つは馬のくつわです。くつわは小さな馬具です。しかし、これによって大きな馬の体全体が御せられます。そのように大きな影響力を持っているのです。もう一つは、船の舵です。舵は小さな部品に過ぎませんが、それは船全体を操るのです。それほど大きな影響力をもっています。
そのような舌が及ぼす大きな影響を、さらに「火」の喩えを用いて語ります。山火事のイメージを持ってくるのです.確かに、小さな火であっても大惨事をもたらす力があるのです。火の使い方を誤れば山火事が起こるように、舌の使い方を誤れば恐ろしいことが起こります。何が起こり得るかについて、ヤコブは三つのことを語ります。
第一に、舌は「全身を汚す」と語られています。私たちが「献身」と言った時、ただこの肉体を献げることではなくて、その生活を献げることを意味しているように、ここで「全身」が意味するのは現在の生活です。私たちの悪い言葉によって、具体的な生活全体が汚されるのです。それはそうでしょう。9節以下に書かれているように、その口で他の人を呪いながら、神の御心に適った清い生活を形成できるはずありません。生活を整えようと思ったら、まずは言葉からなのです。
しかし、言葉は現在の生活を汚すだけではありません。第二に「移り変わる人生を焼き尽くし」と書かれています。舌が悪い言葉を吐くにまかせているならば、人生そのものに大きな影響が及ぶのです。これもよく分かります。言葉によって人生を台無しにした人は、世の中にいくらでもいるからです。
さらにヤコブは続けます。舌の問題はそれで終わらないのです。「自らも地獄の火によって燃やされます」と書かれています。イエス様も言われました。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36)。舌をどう用いるかは、永遠の裁きに関わっているのです。
私たちは、舌がそのような恐るべき力を持っていることを認識しなくてはなりません。ヤコブは言います。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)。「疲れを知らない」とは常に動き回っているということです。言わなくてもいい時に言わなくてもいいようなことを言うのです。それだけではありません。舌は人を殺すことさえできると語られています。死をもたらす毒を持った毒蛇のようなものです。実際、言葉には人を死に追いやるだけの力があるのです。
そして、そのような舌の持つ根本的な問題が明らかにされます。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(10節)。どのようにして舌が火となるのか。現在も将来もまた永遠の運命までをも焼き尽くす火となってしまうのか。それがこの言葉によって明らかにされています。舌が関わっているのは単にこの世の人間関係だけではないからなのです。それは神と関わっているのです。だからその用い方を誤ると山火事になってしまうのです。
主を賛美するために舌を用いたのなら、主なる神が御自分にかたどって創造された人間に対しても、その舌の相応しい用い方があるはずです。しかし、そこで人はその同じ舌をもって、神にかたどって造られた人間を呪うようなことをするのだ、とヤコブは指摘するのです。
「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」と彼は言います。それは「そんなことしてはならない」という意味ではなく、「本来あり得ないことなのだ」という意味です。それは人間以外の自然界では起こり得ないような、極めて不自然なことなのだと、ヤコブは泉や植物を例に挙げて語っているのです。
そのような本来あり得ないようなことを、私たちはしばしばやっている。その認識こそがまず重要なのでしょう。人を呪いながら、「これが人間というものだ」などと開き直ってはならないのです。確かに、ヤコブは「舌を制御できる人は一人もいません」と言います。だからこそ、私たちは神に祈り、この舌を神によって御支配いただくことが必要なのです。