2022年5月11日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:1~13

ヤコブの手紙 2:1‐13

 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。ただ「人を分け隔てすることは良くないことだから、人を分け隔てしてはなりません」と語られているのではありません。そうではなく、主イエスを信じる信仰と分け隔ては本来相容れないものであるはずだ、ということです。

 以前にも触れましたが、初期の教会が社会に与えた強烈なインパクトの一つは、本来なら共にいないはずの人々が同じ食卓についていることでした。ユダヤ人と異邦人がパンを裂いて食べている。奴隷の階級の人と自由人とが、富める者と貧しい者が、同じ部屋にいて共に賛美して食事を共にしている。これはあり得ないことだったのです。

 そのようなあり得ないことがどうして起こったのかと言えば、それはイエス・キリストを信じる信仰の絶大な価値を認識していたからです。信じて洗礼を受けていること、キリストの体の一部とされていること、キリストにあって神を父と呼べること、神の国を受け継ぐ者とされていること、その絶大な価値のゆえに、その他のこの世的な違いなど、一気に色あせてしまったのです。

 その事実をパウロは次のように表現しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26‐28)。

 ここでヤコブが「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じていながら」と言っているのはそういうことなのです。そのような信仰を持っているはずなのに、分け隔てをしていたらおかしいでしょう、とヤコブは言っているのです。

 しかし、現実の教会においては、そのようなおかしなことが起こります。2節から4節にかけて、一例が挙げられています。裕福な人が特別席に案内され、貧しい人には席がないという話です。恐らくヤコブが例に挙げているようなことは、あちらこちらの教会で現実に見られたことだったのでしょう。私たちのルーツであるメソジスト教会にも、かつて教会に有料の特別席が設けられていた時代がありました。富裕層が前の方の席を買い占めるわけです。ちょうどこの教会が産声を上げた今から150年前頃、アメリカのメソジスト教会ではそのようなことが実際に起こっていたのです。

 私たちの教会ではどうでしょう。お金持ちのための特別席などはありませんが、様々な形での分け隔てや差別は起こっているかもしれません。そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それは明らかにそのような人の存在が教会にとって有利であると見なされたからです。貧しい人が多かった初期の教会。実際の活動も困難であったに違いありません。聖餐のパンや食事も、裕福な人が主に用意したのです。集会の場所も裕福な人たちが提供していたのです。6節以下にあるように、この世の富裕層からしばしば教会が酷い目に遭わされたり脅かされたりする時、教会の中に富裕層の人たちがいることは安心をもたらすことになるでしょう。教会の中に起こる分け隔てや差別というものは、単にこの世的な差別意識が持ち込まれたという単純なものばかりではありません。そうではなくて、自分たちにとって有利な存在であるか不利な存在であるかによって起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらない。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そのようにキリストを信じる信仰とは相容れないことが、現実のこの地上の教会においては起こり得ます。私たちはどうしたら良いのでしょう。そこで注目すべきは4節です。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」結局、信仰とは相容れないことが起こっているのですから、問題は信仰に関わる部分にあるのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向け、信仰によってのみ認識できる価値を認識しているかどうかなのです。そうなっていない時の判断、それが「誤った考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。世の人が「差別をするのは間違っている。それは間違った考え方だ」と言うのとは違うのです。あくまでも信仰を問題にしているのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとするのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。どこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が選ばれたという事実です。信仰に富ませてくださったという事実です。

 そうです、既にこの上なく豊かなのです。そして、神の国を受け継ぐ者とされているという事実です。神の国は、神を愛する者に約束された国ですから、大事なことは神を愛しているということです。それ以上に大事なことはないのです。そのように、クリスチャンとされ、神を愛する者とされたという驚くべき事実に目を向けるなら、この世の富によって富んでいるか貧しいかの違いはまったく小さなものとなるはずなのです。その神様がしていることに目を向けないから、教会にとって有利にならないと考えて、「貧しい人を辱める」ということが起こるのです。

 そして、もう一つ注目したいのは先週お読みした1:25の言葉です。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。この「完全な自由の律法(直訳)」とは、神によって愛されている者として愛することだと先週申しました。神様が求めておられることは、それに尽きるのです。その律法に照らすならば、人を分け隔てすることは明らかに律法違反となるでしょう。「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます」(9節)。分け隔てを行うことは罪であるという認識が重要なのです。

 モーセの律法でありましても、例えばわたしは人殺しをしたけれど、姦淫はしていないから違反者ではない、などということはあり得ないわけです。その人は違反者とみなされる。同じように、愛するということに関しても、どんなに伝道熱心であっても、どんなに大きな愛の奉仕をしていたとしても、教会の中で差別が起こっていたら、その教会はあの自由の律法に違反していることになるでしょう。ですから「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と勧められているのです。

 さて、そのように語り、またふるまうということは、私たちの教会において、また、それぞれ置かれている日々の生活の場において、いかなることを意味するのでしょうか。

(祈り)
 

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