ヤコブの手紙 1:9‐18
先週は、試練について語られている御言葉を聴きました。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」具体的に最も身近な試練は迫害であったわけですが、「いろいろな試練」と書かれているところには、もっと広い意味での様々な苦難が含まれているものと思われます。そのような試練を喜ぶとするならば、そして忍耐強く信仰に留まるとするならば、そこに神の御心を見ることのできる神からの知恵が必要なのでしょう。ですから、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そして、この内容は12節へと続きます。
その間に挟まっている9節以下の部分は、貧しい兄弟と富んでいる者について語られています。一見、前後との脈絡がないように思えます。実際、この部分がなくても話は通じます。なぜ突然、貧富の話が出てくるのでしょう。
その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。富んでいる人々もいたのです。奴隷と主人が兄弟として一緒の食卓を囲んでいたのです。経済的格差による身分の違いが厳然としていた当時の社会において、それは絶対にあり得ないことだったのです。そのあり得ないことが起こっていること自体が、また救いの証しでもあったのです。
しかし、地上にある教会は完全ではありませんから、そこにまた貧富の問題、差別の問題も生じることはあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られますし、このヤコブの手紙においても大きな部分を裂いてその問題が扱われています。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。
しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのです。
貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」というこの言葉は直訳すると「身分が低い者」となりますから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのでしょう。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」としている新改訳聖書です。
ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。王の王、主の主である方の家族とされているのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。
また富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものです。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのでしょう。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。
これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになります。
富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。
さて、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。その理由として、4節では、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。ここでは同じことが次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。
先週申し上げたように、救いを完成し、私たちを完全に、大人にしてくださるのは神様です。ここに書かれていることは、人間の努力目標ではありません。私たちは、ただ忍耐をもって信仰に留まるだけです。神が精錬してくださるのです。しかし、その結果について、なんと神様はあたかも私たちが勝ち取ったかのように、栄冠をくださるというのです。神様がしてくださったにもかかわらず、私たちを誉めてくださる。もちろん忍耐することは大変なことです。でも、神様はそのことをも分かっていてくださる。認めてくださるのです。
だから私たちは信仰に留まるのです。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブが言うのはそのためです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなる。それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じです。
しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが誘惑にもなるし、忍耐から練達を生じる試練ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちは忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。
そこで大切なことは、神の善意を信じることです。御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださるのではありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。
そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。
この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。
(祈り)