2022年7月13日水曜日

祈祷会用 ペトロの手紙一 1:1~12

ペトロの手紙一 1:1‐12

 今日から公同書簡の二通目に入ります。ペトロの手紙一です。この手紙は、宛名としてはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられたものです。明らかに回覧されるために書かれた手紙です。それは個々の教会の問題を取り扱うのではなく、諸教会に普遍的な問題を取り扱っているということです。ということで、後に「公同書簡」と呼ばれるようになりました。

 これが書かれましたのは既に教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代です。困難と苦難が度合いを増してきていた。そのような中に生きているキリスト者を励まし力づけるためにこの手紙は書かれたのです。そこでペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。

 ペトロは彼らが受けている試練に言及する前に、まず神の御業について語るのです。「人々があなたに与えた苦しみにではなく、神があなたになにをしてくださったか――まずそのことに目を向けようではないか。そして共に神をほめたたえようではないか!」いわばペトロはそのように呼びかけているのです。

 その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、次の一事です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださった!」(3節)。キリストを信じる信仰が与えられ、信仰によって生き始めるということは、今までの人生に何かアクセサリーのようなものが加えられることではありません。ちょうど赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、神との交わりの中に、神の家族の中に、新しく生まれるのです。

 そして、赤ん坊が自分の努力で生まれてくるのではないように、私たちが新しく生まれるのは神の憐れみによるのです。私たちは自分の努力でクリスチャンになるのではありません。努力してクリスチャンらしくなって新しく生まれるのではありません。そうではなく生まれることが先です。何もできない赤ん坊であっても、確かにこの世に生まれたなら、既に生まれた人でしょう。クリスチャンも同じです。

 神によって新たに生まれることについて、ペトロは特に二つのことを語っています。新しく生まれるということは、第一に「生き生きとした希望」を与えられるということです。わざわざ「生き生きとした(生きている)希望」について語っているということは、もう一方に「死んでいる希望」があるということを意味します。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望にも命のある希望と命のない希望があるのです。希望に命がなければやがて枯れます。この世において一般的に「希望」と呼ばれるものは、やがて枯れていく希望です。人が死をもって終わる人生しか知らなければ、滅びをもって終わる世界しか知らなければ、あらゆる希望は結局枯れてしまう希望でしかありません。

 枯れない希望、生きている希望であるためには、死と滅びを突き抜ける希望でなくてはなりません。そのためには永遠なる神との確かな関係が不可欠です。神の家族の中に新しく生まれ、神との交わりの中に新しく生まれてこそ、死を突き抜ける希望に生きることができるのです。その希望を父なる神との真の交わりにある御子イエス様が、特に復活において見せてくださいました。十字架で終わらぬ希望を見せてくださいました。私たちが新しく生まれ、神の子供であるならば、イエス様に対してそうであったように、私たちに対しても死は何の力も持ちません。イエス様の復活の姿はやがての私たちの姿でもあるのです。

 そして、新しく生まれるということは、第二に「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」とされることでもあります。子供であるならば、当然相続すべきものがあるのです。この世において相続する財産については、多くの人々が多大の関心を払います。しかし、それらは皆、朽ちたり汚れたりしぼんだりするものです。永遠なるものはありません。しかもそれら相続財産は、本当の意味では私たちの「所有」とはなりません。それは既に世を去った人たちがすべてをこの世に置いていったことを見ても明らかでしょう。私たちが本当に受け継ぎ所有することができるのは、神の国において受け継ぐものだけです。

 それは既に私たちのために「天に蓄えられている」ものです。それは私たちが積み立てたものではありません。相続財産の比喩がそのことをよく表しています。自分が積み立てたものを相続財産とは言いません。相続財産は親が用意するのです。そして子に一方的に与える。そのように、神の国における完全な救いは一方的な恵みとして与えられるのです。神が相続者として新たに生まれさせてくださった。だから私たちは相続するのです。

 そして、さらに「あなたがたは…守られています」と聖書は語ります。永遠の希望を与えられ神の国を受け継ぐ者とされた。しかし、その救いに与るのは先の話です。現在の私たちは、いわば嵐に翻弄されながら港へと向かっている船のようなものです。沈んでしまいそうになることが幾たびもあることでしょう。しかし、神は「港まで頑張ってたどり着け」と言っているのではありません。神御自身がその旅路に伴い、御力をもって守ってくださるのです。神の力によって守られるということが何を意味するかは、後でもう一度触れます。いずれにせよ私たちは旅路の途上において、この地上において、神の力を経験するのです。その神の力の通路となるのが「信仰」なのです。ですから「信仰によって」(直訳は「信仰を通して」)と語られているのです。

 このようにペトロは、まず神が私たちに何をしてくだったのか、そして何をしてくださっているのかに目を向けさせます。まず神に向かってこそ、真に現実と向き合うことができるのです。ここに至って初めてペトロは、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが…」と、信仰者の試練について語り出します。信仰は苦しみを免れる手段ではありません。むしろ神と共に、そして人と共に生きようとするならば、あえて担わなくてはならない苦難というものがある。キリストに従うならば背負うべき自分の十字架があるのです。

 しかし、それは「今しばらくの間」と語られているのです。永遠ではありません。そして、それがあえて「試練」と呼ばれているのには意味があります。単なる「苦しみ」ではありません。これは金属の精錬に喩えられているのです。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(7節)。

 純金の塊は、初めから純金であったのではありません。金鉱が破砕され、粉砕され、選鉱され、火によって精錬され、このプロセスにおいて不純物が取り除かれて、最終的に純粋な金として人々の前に現れるのです。今、「純粋なものとして人々の前に現れる」と言いましたが、そう訳してよい言葉がここにも用いられています。「本物と証明され」と訳されている言葉です。

 金はそのように精錬され純粋にされるのです。しかし、それでもやがて朽ちていきます。神はそのような金よりももっと尊いものを造りだそうとしているのです。それは純粋な信仰です。精錬の喩えからわかりますように、試練はただ信仰をテストするということではないのです。試練は不純物を取り除き純粋にするプロセスなのです。考えて見れば、私たちが信仰と呼んでいるものは往々にして不純物だらけなのです。不純物は取り除かれなくてはならない。そのためには火を経る過程が必要なのです。

 そして、不純物が取り除かれていく精錬のプロセスの中で、私たちは先にペトロが語っていたように、確かに神の力によって守られることを経験するのです。既に見てきたことから明らかなように、それは単に苦しみを遠ざけてくれるという意味での守りではありません。そうではなくて、苦難の中にあってなお喜びを奪われない、希望を奪われない、絶望に落とされないことなのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(8‐9節)。

 神の力がもたらされる通路は信仰であると申しましたが、その信仰が純粋にされていくならば、ますますキリストを信じ、キリストを愛するようになり、ますます言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれるようになるのです。そこにこそ神の力の現れがあり、神の守りがあるのではありませんか。ならばもう私たちは救いを受けているとさえ言えるのでしょう。それこそが私たちに与えられている信仰生活なのです。

(祈り)

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