ペトロの手紙一 4:7‐11
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)と書かれていました。私たちの人生には終わりがあります。人生の終わりだけでなく、万物にも終わりがあると聖書は教えています。聖書が語る「終わり」は、同時に新しい「始まり」でもあります。今の世の終わりは来るべき世の始まりでもあるのです。ですから他の箇所においては、「万物の終わり」ではなくて「万物が新しくなるその時」(使徒3:21)と表現されております。
「終わり」が文字通り単なる「終わり」ではなく、それが「始まり」でもあるならば、「終わり」について考え、語ることには大いに意味があります。終わりがどうであるかによって、新しい始まりもまた決定されるからです。終わりにおいて重要なことは、神との関係です。神と共にあるならば、神と共にある者として終わりを迎えます。神に逆らっているならば、神に逆らっている者として終わりを迎えます。この二つを分けるのは神の審判です。最後の審判です。新しい始まりはこの裁きの向こう側にあります。ならば「終わり」に向かう者としてどう生きるのか、ということは極めて重要です。そこで聖書はこう教えているのです。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)と。
「身を慎んで」と訳されているのは、醒めていること、冷静であることを意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。終わりについて考える時に人間が陥りやすいのは宗教的な熱狂です。いつの時代にも「終わりが近い」と言って熱狂し、異常な行動を取る人々、あるいは刹那的な生き方を選ぶ人はいるものです。
確かにペトロは終わりの時について考えています。私たちもまた、このまま古い世界が永続するかのように考えてはなりません。不義が放置されたままで、罪が支配したままで、そして神が侮られたままで、そのままこの世界が続くと考えてはなりません。しかし、そこで大事なことは冷静になることなのです。祈りは陶酔や熱狂と結びついてはならないのです。そして祈りを伴った真に思慮深い行動が必要とされているのです。
ペトロはそこで具体的に三つの事柄を挙げております。その第一は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」ということです。原文においてこの8節は独立した文ではなく7節に繋がっています。互いに愛し合うことが求められている。しかし、その愛は、思慮深く、冷静で、祈りを伴うものでなくてはならないのです。
愛が思慮深さと冷静さを失う時、その“愛”なるものは暴走を始めます。人間の熱情ばかりが先走り、もはや神のことを考えられなくなるような、祈りを失った“愛”なるものは、しばしば共同体を破壊し、混乱をもたらします。「愛」という言葉が氾濫している社会の中に生きている私たちは、なおさらこのことを心に留めねばなりません。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。それは本当の意味で関係と交わりを建て上げていくものでなくてはなりません。ですから、続けて「愛は多くの罪を覆うからです」と書かれているのです。罪は交わりを破壊します。自分の罪のゆえに、また他者の罪のゆえに、交わりが傷つけられ壊されるということが、主を信じる者の交わりにおいてさえ起こります。しかし、愛は多くの罪を覆うのです。愛は多くの罪を覆って、壊れた交わりを回復するのです。罪によって傷ついた関係の中に、赦しをもたらし、和解をもたらし、回復をもたらすことができるのは、思慮深く、祈りを伴った愛だけなのです。
それはちょうど、私たちと神との間に起こったことと同じです。私たちの罪のゆえに壊れてしまった神と私たちとの関係が回復されたのは、ただ神の愛によってでありました。神はその愛のゆえに御子を世に遣わしてくださいました。神はその愛のゆえに御子を私たちの罪の贖いとしてくださいました。神はその愛のゆえに私たちの罪を赦してくださいました。神はその愛のゆえに私たちを御自身との交わりの中へと招いてくださいました。神はその愛によって私たちの多くの罪を覆ってくださいました。
そのように神と私たちとの間に起こったことが、今度は私たちと誰かの間に起こることを神は望んでおられるのです。そして、そのことを私たちに信頼して委ねてくださっているのです。
そして、第二にペトロは言います。「不平を言わずにもてなし合いなさい」(9節)。ここで「もてなし合うこと」について言及されているのは、単にそれが美徳だからではなく、当時の教会の事情が「もてなし合う」ことを必要としていたからです。というのも、パウロがそうであったように、多くの伝道者や指導者たちが巡回することによって、当時の教会は成り立っていたからです。
巡回する教師たちはその地のキリスト者の個人宅に泊まります。場合によっては長期に渡って滞在します。泊める家は必ずしも裕福ではありません。いや初期のキリスト者たちは総じて貧しい人々が多かったのです。当然、負担がかかります。しかも、その負担は集会の構成員全体に均等にかかるわけではありません。ひとりの人に他の人よりも多くの負担がかかることがあります。するといつのまにか不平が生じてくる、ということが起こってまいります。そのように「不平」は人が不公平であると感じ、自分たちは損をしていると感じるところに起こってまいります。
そのことを考えますと、ペトロがただ「もてなし合いなさい」と勧めているのではなく、特に「不平を言わずに」と言っていることは非常に大事なことであることが分かります。不平が満ちている状態は、その前に書かれている「互いに愛し合う」ことの対極にあるからです。愛することは、時として、あえて損を引き受けることを意味します。愛することは、時として、あえて重荷を引き受けることも意味します。それは、キリストが私たちのためにしてくださったことを考えれば分かります。キリストは私たちの罪の重荷を引き受けてくださいました。キリストはあえて苦しみを引き受けてくださいました。キリストは、いわばあえて喜んで損をしてくださったのです。そのキリストに目を向けるのでなければ、私たちの心はいつでも不平で一杯になってしまいます。
そして、第三にペトロはこう言います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)。やがて私たちの人生もまた終わりを迎えます。その事実は、私たちが今持っているものは本当の意味で私たちの所有ではない、ということを意味します。能力にせよ、他のものにせよ、私たちは人生の途上で手放しながら生きていきます。やがてすべてを手放す時がやってくるのです。それらはある期間私たちに託されているに過ぎません。
ならば、私たちは所有者のように振る舞ってはなりません。大事なことは、10節にありますように、「善い管理者」になることです。管理者として賜物を用いることです。賜物を用いる上での基本的な原則は「仕える」ということです。神の賜物は、私たちが他者を支配するために与えられているのではありません。他者に仕えるために与えられているのです。
以上挙げられた三つのこと、すなわち「愛し合うこと」「不平を言わずにもてなし合うこと」「賜物を生かして互いに仕えること」は、教会という共同体を形作ることと関係しています。「万物の終わりが迫っています」という言葉から見てまいりました。その「万物の終わり」が、ペトロの言うように間近にあるのか、それともそれから既に二千年近く経ってしまったように、これからもまだ先のことなのか、それは私たちには分かりません。しかし、いずれにせよ、私たちは終わりに向かって生きているのです。そこで私たちにとって重要なことは、思慮深く、冷静に、祈りをもって、教会の交わりをしっかりと形作っていくことです。神を礼拝し、神に栄光を帰し、神と共に生きる共同体をしっかりと形作り、その交わりの中に生きていくことなのです。