ペトロの手紙一 5:6‐11
悪魔に抵抗しなさい
今日は第二朗読でペトロの手紙が読まれました。8節をご覧ください。「身を慎んで目を覚ましていなさい」(8節)。そう書かれていました。「身を慎んで」とは、「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は熱狂であり陶酔です。そうなってはならない。それはなぜか。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)。それが理由です。
今日の一般的な感覚からすると、これは奇妙に聞こえるかもしれません。例えば皆さんが誰かに「悪魔がライオンのように歩き回っているから気を付けなさい」という話をしたら、その人はどう思うでしょう。恐らくその人はあなたを狂信的な人か現実から遊離している人と見なすでしょう。とても冷静に物事を考える人とは見てくれないに違いありません。しかし、ここでペトロが言っていることこそ、まさに冷静で醒めているために必要なことだと言うのです。
それはなぜか。それはこれを読んでいた人たちのことを考えると分かります。この手紙の読者は、迫害を受けていた教会の人たちです。他の人たちから苦しめられている人たちです。そのような状況に置かれたら、どうしても自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうものす。だからこそ、本当の敵が誰であるかをペトロは語るのです。
本当の敵は人間ではなく、「悪魔」なのです。「悪魔」という言葉に抵抗があるならば、「悪そのもの」と呼んでもよいでしょう。人間を相手にした戦いや争いの泥沼に呑み込まれてしまってはならないのです。身を慎んで、冷静に正しい判断をなすことができなくなるからです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」というこの言葉を、現代に生きる私たちもまた、自分自身のこととして聞かなくてはならないのです。
人間相手の戦いならば、こちらが相手よりも強くなることが重要になるのでしょう。しかし、悪魔が敵であると認識するならば、戦い方もおのずと違ってまいります。ペトロは何と言っていますか。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは言います。そうです、悪魔相手の戦いならば、何よりも重要なことは、信仰にしっかりと踏みとどまることなのです。
信仰にしっかり踏みとどまって
「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」ということとの関連で、既に大事なことが前の方で語られていますので、そこも見ておきましょう。今日の第2朗読は6節からでした。もう一度お読みいたします。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(6‐7節)。
その直前には「皆互いに謙遜を身に着けなさい」ということが書かれています。今日の箇所はその続きです。しかし、単に謙遜を美徳として勧めているだけならば、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」とか「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉は必要ありません。明らかにこれは、読者が苦しみの中にあるから書かれているのです。その中で悪魔との戦いの中にあるからこそ書かれているのです。
苦しみの中にある時、特に、特定の誰かから苦しめられている時、まず考えなくてはならないのは、「わたしは神の御前でへりくだっているか」ということなのです。いつの間にか神に対して恐ろしく不遜な態度を取っていることがあるからです。お互いに謙遜を身に着ける以前に、そもそも神に対して謙遜を身に着けているか。そのことを問わなくてはならないのです。なぜなら、神の力強い御手の下でへりくだることがなかったら、その次に書かれているように、思い煩いを神にお任せするということもできないからです。
神の力強い御手を侮ってはなりません。私たち自身が、神の力強い御手の下で自分を低くしなくてはなりません。神に対して謙遜を身に着けなくてはなりません。そうしてこそ、《力強い御手を持った神》がまた、《私たちを心にかけていてくださる神》であることを知るようになるからです。
「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と書かれています。「心にかけてくださるからです」ではありません。「いつか心にかけてくださるでしょう」と言っているのではありません。「いつも心にかけていてくださっている」と言っているのです。
私たちが高ぶって、神を忘れていたり、不遜な態度を取っていたときにも、神の方は、心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に背を向けて、自分の力に頼って生きていたそのときでさえ、神は私たちを心にかけていてくださったのです。
神はいつだって心にかけていてくださる天の父です。しかし、私たちが傲慢な態度を取っている限り、その真実は見えてきません。力強い御手の下に低くなった時にこそ、今に至るまで心にかけていてくださった御方の真実に触れることができるのであり、そうあってこそ初めて、思い煩いをゆだねることができるのです。
「信仰にしっかり踏みとどまる」とは、そのようなことなのでしょう。何か自分が強い者になることではありません。揺るぎない信念を持つようなことでもありません。へりくだることなのです。神の力強い御手の下に身を低くする。そして、心にかけていてくださる御方に私たちの目を向け続けることなのです。それこそが悪魔に対する抵抗ともなるのです。
完全な者としてくださいます
そして、ペトロは「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と言うだけでなく、信仰に踏みとどまろうとする彼らをつっかえ棒で支えるかのように、彼らが忘れてはならない大事な言葉を付け加えます。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。
日本の教会だけを考えていたら見えてこないかもしれませんが、今の時代であっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、私たちの想像も及ばないような苦難を耐え忍びながら、なおも信仰に踏みとどまって言葉と行いをもってキリストを証ししているキリスト者たちが現にいるのです。さらに歴史を遡るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。苦難の中で神の愛を疑って背を向けるのではなくて、苦難の中でこそ神の変わらない愛を味わい知り、神は確かに心にかけていてくださるということを知って、喜びに溢れて生きてきた人たちがいるのです。実際、これを書いているペトロもそのような一人だったのです。そのような人々のことを忘れてはならないのです。
そして、さらにペトロはもう一本のつっかえ棒を加えます。こう書かれています。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。
ここには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。苦しみのその先に、永遠の栄光に招いてくださった神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっているのです。
「完全な者とする」とは、「破れたものを修復する」というような意味の言葉です。もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人間であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、苦しみの後には最終的に神が責任をもって完全に修復してくださり、すべてを回復してくださるのです。
さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるとの約束が続きます。今は戦いがあります。信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。悪魔との戦いです。揺らぐことも起こるでしょう。倒れそうになることもあるでしょう。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。もう揺るがない。もう倒れる心配もない。戦いが終わる時が来るのです。
それはすべて神によるのです。それまで私たちが頑張って強くならねばならないのではありません。繰り返しますが、大切なことは、神の力強い御手の下で身を低くすることです。へりくだることです。ですからここでもペトロは「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と言って締めくくっているのです。
そうです、私たちにとっても大事なことは、御前にへりくだって、力ある神、そして、心にかけていてくださる神に信頼して、ペトロと共にこう唱和することなのです。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」。
(祈り)