ペトロの手紙一 1:13‐25
今日の聖書箇所に「仮住まい」という言葉が出てきました。聖書は私たちのこの地上の生活を「仮住まい」と表現します。なるほど、そのとおりだと思います。しかし、私たちはまず、ここでペトロが「仮住まい」という言葉をもって思い描いていることを正確に理解しなくてはなりません。そのためにはペトロが念頭に置いていた二つの出来事について良く考える必要があります。二つの出来事とは《出エジプト》と《キリストの復活》です。
第一に、この「仮住まい」という言葉は、エジプトから解放されたイスラエルの民との関連で理解されなくてはなりません。そこでまず15節に書かれていることに目を留めましょう。ペトロは「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(15節)と勧めています。その根拠として、彼は旧約聖書の言葉を引用します。「『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(16節)。これは旧約聖書のレビ記19章2節からの引用です。
このレビ記の言葉は、もともとシナイの荒れ野で語られた言葉です。彼らはエジプトから導き出され、解放された民として、約束の地に向かって旅をしていたのです。途中で彼らはシナイの荒れ野に宿営しましたが、そこは彼らにとって永住の地ではありませんでした。文字通り彼らは「仮住まい」をしていたのです。ペトロの念頭にあったイメージは、まずこのイスラエルの民の姿です。
それは18節の言葉からも分かります。こう書かれています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(1:18)。エジプトから解放されたその夜、イスラエルの民は小羊を屠り、その血を鴨居と柱とに塗りました。それは神が命じられたことでした。神の裁きがエジプト全土に臨む時、その血がしるしとなってイスラエルの家を神の裁きが過ぎ越すためでした。そのように過越の小羊の血を通してエジプトで奴隷であった民は救われ、奴隷としてのむなしい生活から解放されたのです。
それと同じように、十字架において流されたキリストの血によって、私たちは、罪の負い目から解放され、神から離れたむなしい古い生活から解放され、神に導かれる新しい生活が与えられました。ここでもキリストを信じる者の生活が、エジプトから導き出されたイスラエルの民の生活と重ねられていることが分かります。
このように、ペトロが「仮住まい」について語る時、それは単に私たちの人生の期間が限られていること、暫定的な生活であることを言っているのではないのです。そうではなくて、目的地へと向かう旅の途上にあることを言っているのです。同じ「仮住まい」でも、向かうべき目的を持たない者は《放浪者》です。ペトロは《放浪者》について語っているのではありません。約束の地に向かって、神に導かれて歩んでいる、神の民としての生活について語っているのです。
そして第二に、この「仮住まい」という言葉はキリストの復活との関連で理解されなくてはなりません。私たちはいかなる神を信じて「仮住まい」の生活をするのでしょうか。21節を御覧ください。ペトロは私たちにこう語りかけています。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(1:21)。
ペトロはここで「希望」という言葉を口にします。しかし、目に見える世界は単純に「希望」とは結びつきません。この世界の有り様は最終的な破局へと向かっているようにしか見えないのです。個人の人生も同じです。この地上において営まれる人生は、ある意味では失っていくプロセスです。能力を失い、健康を失い、友人を失い、社会との繋がりを失い、やがて地上の命を失って死に至る。そのような人生に目を向けて、なお「希望」を語ることができるでしょうか。
いや、目に見える世界は、「希望」と結びつかないだけではありません。それは極めて不可解なものでもあります。私たちは、この世界が必ずしも私たちの納得の行く仕方で動いてはいないことを知っています。理不尽なことが起こります。「なぜこんなことが!」と叫びたくなるようなことが起こります。善が必ずしも報われるわけではありません。悪が必ずしも裁かれるわけではありません。正しく公平に事が運んだりはしません。目に見えるこの世界はまことに理不尽です。
しかし、そのような地上の世界に、神はキリストを遣わされました。そして、十字架にかけられて死んだキリストを死者の中から復活させ、栄光をお与えになったのです。そのことを通して、私たちに重大なことを示されたのです。《私たちがこの地上に見ていることはまだ完結していない》ということです。
理不尽ということを言いますならば、罪のないキリストが十字架にかけられて殺されることほど理不尽なことはありません。しかし、神はそのキリストを復活させ、栄光を与えられたのです。そこで初めて完結するのです。十字架はまだ途中なのです。十字架までの部分は、全体の一部でしかないのです。
そのように、いわば《十字架までの部分しか見えていない》のが、私たちのこの地上における生活です。だからそれだけに目を向けているならば、それは理不尽にしか見えないし、そこには希望がありません。しかし、私たちは地上の生活だけに目を向けて生きる必要はないのです。私たちは「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」を信じているのです。十字架までの部分しか見えていない私たちの地上の生活は、旅路の途上でしかないのです。私たちは、その意味においても、確かに「仮住まい」をしている者に過ぎません。
そのように、最終的に神様がすべてを完結させてくださいます。この世界の歴史をも、神の民としての教会も、私たちの人生も、正しく完成し完結させてくださいます。それは、ある意味では「神が公平に裁かれる」ということでもあります。それゆえに、私たちは17節の御言葉を心に留めなくてはならないのです。「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(1ペトロ1:17)。
それはある意味では最終的な審判者である神を「怖く思う」ということでもあります。真に恐れるべき一人の御方を知っているというのは、非常に幸いなことです。それは私たちにとって安全なことでもあります。また、それはその他諸々の恐怖から解放されることでもあります。ですから、本当に恐れるべき御方を「怖く思う」ということは大事なことです。
しかし、既に見てきましたように、神を畏れて生活をするということは、ただ単に神の罰を恐れおののきながら戦々恐々と生活することを意味しません。人生は、死刑の日を待つ死刑囚の独房ではないのです。神は、イスラエルの民の旅路を導かれたように、私たちをも忍耐強く慈しみをもって導き給う御方です。そして、キリストの復活を通して、私たちに生き生きとした希望を与え、希望に向かって歩ませてくださる御方です。私たちはそのような御方を「父よ」と呼ぶ者としていただいたのです。ならば、重要なことは、従順な子供として、父を愛し、敬い、信頼して生きることです。それが私たちの仮住まい生活の仕方です。
(祈り)