2025年2月16日日曜日

「信仰を生きる生活」

 2025年2月16日主日礼拝説教

聖書:テモテへの手紙一 4:7b‐16

キリスト・イエスの良い僕となるために
 本日の第2朗読は「信心のために自分を鍛えなさい」という言葉から始まっていました。「信心のために自らを鍛える」という言葉は私たちの信仰生活においては、あまり耳にしない表現であるかと思います。そこで、今日は、この内容に入る前に、その前提となっていることを先に見ておきたいと思います。

 その直前には「キリスト・イエスの立派な奉仕者」(6節)という言葉が出てきます。「奉仕者」というのは「召使い」あるいは「僕(しもべ)」とも訳される言葉です。「立派な」と訳されているのは「良い」という言葉ですから、要するに「キリスト・イエスの良い僕」ということです。ここに語られている内容は、大まかに言えば「キリスト・イエスの良い僕として生きる」という話です。

 この手紙を受け取ったテモテはその当時、エフェソの諸教会の牧会を託されていました。そこでパウロは「これらのことを兄弟たちに教えるならば…良い僕になります」とテモテに語っているのです。「これらのこと」というのは、直接的にはその前の3節から5節にかけて書かれていることです。しかし、そこでは「異なる教え」すなわち異端との戦いが問題となっているのですから、より広い意味で「健全な教え」を指していると見てよいでしょう。

 テモテはキリストから特に教えることを託されているのですから、健全な教えを語ることによって、キリストの良い僕となるのです。そして、当然のことながら、良い僕として健全な教えを語るためには、自らが健全な教えによって養われていなくてはなりません。「信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて」(6節)と書かれているのはそういうわけです。

 しかし、より広い見方をするならば、キリスト・イエスの僕となるために召されているのは、何も教えることを務めとするテモテに限ったことではありません。そして、信仰の言葉と善い教えによって養われなくてはならないということもまた、テモテに限らず、誰であっても、キリスト・イエスの良き僕となるためには不可欠であると言えるでしょう。

 要するに、霊的に栄養失調であったなら、良い僕にはなれない、ということです。そこで何を食べるかが重要なのです。私たちはまず「信仰の言葉」を食べなくてはならないのです。当たり前のことですが、この世に満ちている言葉は信仰を前提とはしていません。この世の言葉だけを食べているならば、信仰的には確実に栄養失調になります。福音に基づく信仰の言葉によって養われ満たされなくてはならないのです。

 また、一見宗教的に見えたり、心を揺さぶるような感動的な話であるかもしれないけれど、実のところ福音とは全く相容れない言葉もあります。それをパウロは「俗悪で愚にもつかない作り話」という辛辣な言葉をもって表現します。実際、彼らが当時生きていた世界は、今日の日本よりもはるかに宗教的な世界だったのです。なので、そのような話はいくらでもあったのです。しかし、そのような「俗悪で愚にもつかない作り話」を食べていてはならない。そのようなものは「退けなさい」と言われているのです。そうではなくて、「善い教え」すなわち健全な教えの言葉によって養われなくてはならないのです。

 さて、私たち信仰的なの栄養状態はどうでしょうか。頌栄教会の栄養状態はどうでしょう。そのような信仰の言葉と善い教えの言葉が語られているか。聴かれているか。養われているか。そこにおいて礼拝説教の役割は重要です。しかし、これはただ礼拝説教だけの問題ではありません。新約聖書において繰り返し「励まし合いなさい」と勧められています。信仰の言葉をもって互いに励まし合うということが必要です。頌栄教会におけるお互いの間で交わされているのは「信仰の言葉」でしょうか。それともこの世の言葉でしょうか。

 またその後の教会の歴史を見るならば、パウロの言う、「健全な教え」は「新約聖書」という形で保持されて、伝えられてきたとも言えます。ありがたいことに、私たちはそれを日本語に訳された聖書として手にしているのです。しかし、手にしているだけではだめなのです。私たちは聖書の言葉によって養われなくてはなりません。聖書の言葉そのものに耳を傾けようとしないで、この世のジャンクフードのようなものばかり食べていたら必ず霊的な栄養失調に陥ります。

信心のために自分を鍛えなさい
 そして、今日の箇所において「信心のために自分を鍛えなさい」と続くのです。栄養状態が良いかどうかも重要ですが、パウロはさらに栄養を十分摂った上で、トレーニングが必要だというのです。

 ここで言われている「信心」とは、単に「信じる心」のことではありません。これは「敬虔」とも訳されます。「敬虔」というのは、単に心の中のことではありません。また、礼拝堂の中に限ったことではありません。むしろこの「信心」あるいは「敬虔」ということにおいて重要なのは礼拝堂の外における生活です。重要なのは具体的な生活の仕方です。敬虔な生活とは真に神と共に生きる生活を意味するのです。

 確かに聖書が語るように、人は敬虔であるから救われるのではありません。救いはただ神の一方的な恵みによるのです。しかし、一方的な恵みによって救いにあずかったのなら、その救いは「生活化」される必要があるのです。罪を赦され、神の子どもとされたのですから、神の子どもとして、神と共に生きる生活として具体化されなくてはならないのです。

 それは一方においては聖霊の働きです。聖霊のお働きがなければ、そもそも私たちの信仰生活そのものが成り立ちません。聖霊が私たちの信仰生活を形づくっていくのです。しかし、もう一方において、神と共に生きる生活は、私たちが「身につける」べきものなのです。身につけるべきものは頭ではなく体で覚えなくてはなりません。ここでは明らかに「体の鍛練」との類比で考えられています。実際に水に入って体を動かすことなくして水泳を身に着けることはできません。「信心の鍛錬」も同じことです。

 それゆえに、教会はかなり早い時期に、例えばユダヤ教の伝統から聖書日課を取り入れたり、あるいは朝と夕の祈りに加え、定まった時刻に祈るという習慣を取り入れたりしたのです。(例えば、朝6時、9時、正午、午後3時に祈ることなど)。それはそのように行わなくては救われないという、救いの条件ではないのです。そうではなくて、神と共に生きる生活を形づくる知恵であり体で覚えるための練習だったのです。そのような習慣を現在の我々の教会は持っていませんが、肉の弱さを持つ私たちであるからこそ、そのような練習・訓練が必要であることには変わりありません。私たちに今、与えられているのは日々の聖書日課と、この定められた時に集まってささげる主日礼拝です。

 パウロはここで「体の鍛練も多少は役に立ちますが」と書いています。「多少は」と訳されていますが、原文は「小さい」とか「少ない」という意味の言葉です。そう書かれているのは、死を越えてまで役には立たないからです。あくまでもこの世の命にしか関係していない。実際そうでしょう。しかるに私たちは実際、この世の命のために、健康を保つという目的のために、一生懸命に「体の鍛練」を行うこともするのでしょう。ある人はジムに通い、ある人は朝早く起きてウォーキングをする。ならば、ましてや神と共に生きる生活は、この世だけでなく来るべき世にも関わっているのであり、死んで終わりではないのですから、実際に体を用いた鍛錬によって「身につけること」には、なおさら真剣に取り組んでもよいはずです。

 実際に、このように体を用いた鍛錬によって神と共に生きる生活を「身につけること」「身についていること」の大切さを、私たちは数年前、いやというほど思い知らされたのではありませんか。2020年の3月29日、私たちはこの礼拝堂に集まって礼拝を捧げることができなくなりました。説教も聞くことはできなくなりました。それが6月第2週まで続きました。しかし、考えてみれば、このようなことはコロナ禍でなくても起こり得ることです。

 実際、病気のため、あるいは高齢のため、毎週礼拝に集うことができなくなった方は身近にいくらでもいるでしょう。私たちもやがては集まれなくなります。その時に、信仰生活が「身についている」かどうかは、きわめて重要なことなのでしょう。信心の鍛錬をしてきたか。置かれた状況において、鍛錬を続けているか。それが問われる時は来るのです。今、私たちの信心の鍛錬はどうなっているでしょうか。

 さらにパウロはテモテにこう勧めています。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(12‐13節)。先に触れましたように、牧会者であるテモテに託されていたのは、異端の教えがはびこりつつある教会において、正しく「教える」という務めでした。なのでここで再び「聖書朗読と勧めと教えに専念しなさい」と語られています。

 しかし、教えるということは、ただ正しい教理を語れば良いということではありません。やはり教えることを託された者は、「信じる人々の模範となる」という課題を避けて通ることはできないようです。これは牧師にとって最も厳しい言葉です。しかし、これはまた先に救いにあずかった者が後に続く人々の模範(あるいは「見本」)となるという意味において、すべてのキリスト者に当てはまるとも言えるでしょう。

 いずれにしても、ここに書かれていることは既に述べられた「信心の鍛錬」と切り離すことはできないのです。すべては、信仰の言葉と善い教えの言葉とに養われ、かつ具体的な鍛錬によって信仰生活を「身につける」ことによって生まれてくることだからです。すなわち、「模範となる」ということは、神と共に生きる具体的な生活から生じる実りなのです。「模範となる」ということが先に来るのではないのです。神の水源につながって、水の満ちた井戸であってこそ、そこから汲んで清い水を差し出すことができるのです。水源ににちゃんとつながっていない涸れ井戸から無理をして水を汲み出して与えようとするならば、せいぜい泥水を撒き散らすのが関の山です。日々の信心の鍛錬を大切にしましょう。

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